おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(14)

「本物」を選ぶことで生じる純粋な想いに相反するかのように、潜む欺瞞的な歪みや非対称的な暴力性に目を瞑ることは、「先送りの病」=モラトリアムに回収されてしまう恐れがあります。「モラトリアム」とロマン主義的な心性は、対置的な意味での後期が抱える「本物」を巡る自意識の表れであるとするならば、歪みをそのままにすることができない「潔癖」であるからこそ、冷たくて残酷な現実の痛みと向き合い続けなければなりません。

9巻から生じた「本物」という「対称的」な目的を一致させながらも獲得した共同性の違和感=欺瞞を告発したのが11巻でありましたが、その壮大な願いは同時に呪いにもなり、潔癖的に許容できないがゆえに「私と他者」を傷つける「言葉と現実」のズレが剥き出しになります。

12巻の冒頭、積み重なってきた月日を思わせる他者の温度と距離感が描かれています。「変化」の前兆であり、もう戻れない関係性。欺瞞的な反復的構造から脱け出すために、主体的に「先送り」しないことを意識づけるように。これまでの一年間の歩みを振り返りながら語り直すことで、共有した過去を「思い出」にしては相対化していきます。共有している事実でも、それぞれの感情の差異はあるでしょう。他者であるから。

しかし、ここではさほど「言葉と現実」が乖離していないような微温的なコミュニケーションが繰り広げられます。記憶の語り直しのなかでも、あえて言わない「沈黙」も含めた語りといったハイコンテクストな共有性が見て取れるでしょうか。意味が過剰に発生する「場」となっている。

「相対化」して「先送り」にしてきた比企谷八幡の内面の吐露となります。

 

 

結局のところ、俺はありとあらゆる解答も解決も結論も求めてはいない。きっと解消されることを望んでいた。目の前の課題問題難題が有耶無耶のうちに雲散霧消する曖昧模糊とした終わりを待っていた。

おそらく俺たち全員がこのまま何もかもがなかったことになるのを無意識に願っていたのだと、手前勝手にそう思っている。

(…)

だって、微睡みのような、あるいは真綿で首を絞めるような、そんなまだらに幸せと不幸せが入り混じった時間を俺たちはともに過ごしてきたのだから。

だが、それが叶わないことを知っている。

(…)

過去の俺はこんなぬるま湯のような状況を嘲笑うだろう。未来の俺はその答えとも呼ばない結論を許しはしないだろう。現在の俺は正しさの何たるかを知らぬまま、それでもまちがっているという実感を抱えている。(P41)

 

 

前期の比企谷八幡の潔癖性は「他者の不在」であり、独我論的なものでした。現状の倫理的位相とは異なるものです。倫理を他者や社会を巡る内発的かつ具体的な志向性であるとするならば、他者性と自然と結びつくものでしょう。ですから、後期の「他者の発見」からの欺瞞を許容できない比企谷八幡の潔癖性は眼前にいる具体的な他者に対するものとなっている差異がみえます。

 

「でも、ちゃんと言うべきだったんでしょうね。それが叶わないとしても……。たぶんきちんとした答えを出すのが怖くて、確かめることをしなかったの」

(…)

「だから、まずはそこから確かめる……。今度は自分の意志でちゃんと決めるわ。誰かに言われたからとかではなく、ちゃんと自分で考えて納得して、……諦めたい」

(…)

雪ノ下の中にあるのはこれまでもずっと諦観だったのだろう。ただ、それが確定されなかったからそのまま抱きしめ続けていたのだ。(P48)

 

これまで「沈黙」してきた雪ノ下雪乃が語る自分自身のこと。もちろん、彼女の「沈黙」は物語構造に要請されているようなものといえるでしょうが、「沈黙」をしてしまうこと自体が主体性を欠き、「依存」につながっているのは見逃せません。雪ノ下雪乃の諦念と後悔。

雪ノ下雪乃は父の仕事がしたかった、と話します。しかし後継者としては雪ノ下陽乃がいて、選択のイニシアティブを持つのは母であるという「家」の事情に踏み込んでいきます。役割を固定されてきた姉とは対照的に自由だった雪ノ下雪乃。そんな姉を真似て振る舞い方を決めることでしか妹として主体的に確立できなかったことが「依存」を生んだと解釈されています。雪ノ下雪乃は他者の振る舞いを模倣することで、つまり主体的に主体性を他者に委ねることで「依存」という性質が生み出されていったと読めるでしょう。

それでも雪ノ下雪乃は、自分の意思で決めて諦めたいと言います。彼女の「依頼」は主体性に関わるもので、「自立」ができるように見届けて欲しいというものでした。雪ノ下雪乃の「沈黙」にある主体性の欠落=依存は、他者との緊張関係を伴って物語の核に組み込まれていきます。

 

 

一歩進むごとに流れる光が、陽乃さんの白い頬に温かな光と冷たい影を落としていた。そのせいで、陽乃さんの表情を捉えることは難しい。矛盾しているように思える模糊とした言葉と同様に。(P87)

 

「矛盾」に引き裂かれながらも内包される決定不能な態度。意味の宙吊りという不安。常に両義的であり、意味は宙に浮いてしまうかのように。「言葉と現実」のズレは他者との無限の差異を暴露するものの、それを踏まえて関係していくのが倫理的ともいえるでしょう。「分からなさ」といった「沈黙」が横たわるなかでの「命がけの飛躍」が他者とのコミュニケーションであるように。

雪ノ下陽乃の曖昧さは他者としての虚実と遠近感を揺るがすものです。「温かな光と冷たい影」を落とす風景に照射される雪ノ下陽乃の両義性は、これまで「完璧超人」のように描かれてきた雪ノ下陽乃でさえも、ある意味では「健全」に「諦観」という「成熟」を迎える段階を踏んできたことが窺える描写の深みとなっています。

『俺ガイル』では「成熟」について、いつか「違和感」を受け流すものであり、「諦観」を引き受けるものとして描かれています。「成熟」という「大人」を対置させることで、「子ども」との間で揺れる若者ならではのイマ・ココとしての葛藤といえるでしょうか。モラトリアム=先送りとの狭間。二項対立の余白。

前述のように、文字通りライトノベル的な意味でのサブカルチャーと、江藤淳的な意味でのサブカルチャーの「二重性」を本論で引き受けるとするならば、二項対立としての「夜の文学」という従来の文学観と、その相対化としての「健康な意味」での「昼の文学」の間で揺れるような未決定の「交点」に位置するからこそ二項対立の狭間で描ける「言葉」や「物語」があるのではないか。サブカルチャー文学として『俺ガイル』を読むことは可能であるか、というのが本論でもありますから、「成熟」を巡る時間的・空間的な青春模様が組み込まれて描かれているといえるでしょう。

 

 

ほんとはずっと昔から気づいていた。

あたしが入り込めないところがどこかにあって、何度もその扉の前に立つけれど、それを邪魔しちゃいけない気がして、ただ隙間から覗いて聞き耳を立てることばかり。

ほんとはずっと昔から気づいていた。

あたしは、そこへ行きたいんだって。

それだけのことでしかなくて。

だから、ほんとは。

――本物なんて、ほしくなかった。(P99)

 

12巻から挿まれている「interlude」には、各キャラクターのそれぞれの「本物」への態度が表れています。引用したのは由比ヶ浜結衣の独白となります。

Interludeによってポリフォニー的に、語られなかったキャラクターの余白ともいえる「声」が語られます。比企谷八幡の一人称視点から、別のキャラクターの一人称視点へとバトンを受け渡すことで、キャラクター文芸としての立体感を付与するかのように従来の比企谷八幡の目線では語ることができない「声」を拾うことができ、多層的な語りを獲得しているともいえるでしょうか。

比企谷八幡の「信頼できない語り手」とは異なる、彼女たちの物語構造的に強いられてきた「沈黙」にある痛烈な感情は、一人称視点を引き受けることで独白の重さを担保しているかのように読めます。相対的な他者のように、コミュニケーションの「番い」として描かれていた由比ヶ浜結衣のある種の疎外感の告白。「沈黙」の告白は他者から「私」を引き受けていくことで、多角的な「私」の具体的な言葉をとおして輪郭を形成していく。その言葉でもってキャラクターの隙間を埋めていくことは、キャラクター小説の語りとしては倫理的ともいえるでしょうし、固定的な一人称視点でのキャラクターの立て方と「沈黙」の構造的な臨界点という「声」を指摘しているともいえます。

 

 

事実として、俺も葉山もお互いに相手のことを勝手に理解した気になって、そのうえ失望して、さらには諦めて、あまつさえそれを受け入れて、もはや手前勝手な感傷を押し付けることしかしてきていない。

投げかける言葉はいつも問いかけの体をなさず、どこかよそを向いている。届いているかどうかを確認することさえしないのに、言わずにはいられない。

お互いのスタンスが相容れないことを知っていながら、それでも無視するのも癪に障り、問わず語りや皮肉めいたあてこすりの応酬だけがある。(P163)

 

 

比企谷八幡の主観における葉山隼人との距離感の整理。これまで記してきた仮構的な「夜」と「昼」の交点ともいえます。遠近感は他者との実存的なズレを意識させながらも、どこかで「近さ」を見出してしまう。意味の氾濫が起きる。鏡合わせのようなある種の同属性を感じながらも、「絶対的な分かり合えなさ」にある距離をつうじて、葉山隼人とのコミュニケーションの差異にあるズレはぐるりと一周してはどこか不思議と重なり合ってしまう。交通整理的な秩序が遠近的に生じている可笑しみがあります。2人の関係性からアイロニカルな「対称性」をみると、「昼」と「夜」の仮構的な一致としての二項対立の相対化を読んでしまいます。

 

12巻から、奉仕部の「鍵」を巡る比企谷八幡の内面の告白が繊細に描かれていきます。まずは引用します。

 

校舎に蟠る夜闇に廊下はしんしんと冷え込み、扉一枚隔てただけでまるで別の場所に思えた。

けれど、肌で感じるこの冷たさこそは、この部室が心地よい空間であったことの証明。

仕事として請け負わない以上、明日からは俺がここへ来ることもなくなる。そう思うと、いささか名残惜しい。

けれど、きっと、自立とはこういう類いのものなのだ。小町の穏やかな兄離れのように、ちょっと寂しくて、誇らしい。だから、これは祝福すべきことだ。

大事なものをそこへしまうように、かちゃりと鍵がかけられた。

その鍵は彼女だけが持っていて、俺は触れたことがない。(P211)

 

奉仕部の「鍵」。

部室の鍵は常に雪ノ下雪乃が持って来ていたことを知り、代わりに取りに行く比企谷八幡。その結果、「すれ違い」が起きることは注目に値するでしょうが、ここではいつも先に来ている雪ノ下雪乃の不在、その「鍵」を巡る主体性に重きを置いてみます。「鍵」に触れたことのない比企谷八幡。それ自体は比企谷八幡の受動性を意味しているでしょう。「仕事だから」。「部活だから」。それゆえに「鍵」を取りに行くことで能動性を感じさせる描写となっています。「依頼」が来るのを待つ受動的コミットメントとは異なり、主体的な行為として「鍵」に触れようとすることで関係性についての変化を感じさせます。「鍵」を巡っては結果的に「すれ違い」になるところも含めて、コミュニケーションの多義的なズレを読むことは可能でしょうが、比企谷八幡の主体性を問いながらも彼と雪ノ下雪乃との非対称性のメタファーともいえるでしょう。

 

物語は、プロム企画を発案する一色いろはによって動いていきます。

雪ノ下雪乃から「なぜ、プロムを行うのか」と理由を問われると、「自分のため」であると返した一色いろは。意思を明確にするように彼女の主体性がみえます。その言語化は嘘でも本当でもどちらでもいいと思えるくらいの清々しさを伴っているように、コミュニケーションとしてはある意味では不明瞭にもかかわらず、この瞬間だけは非対称性は拡大化していません。他者との刹那的な一致がある。正確には「分からない」からこそ、「まちがえ」ないように多義的な意味とズレから引き受けて、不思議と共通了解が取れてしまうおかしみといえるでしょうか。

一色いろはの提案を受けて、プロム企画を「自立」して行おうとする雪ノ下雪乃。8巻の反復ではなく、雪ノ下雪乃の主体性が問われているからこそ「自立」しようとする彼女なりの意思がみえてきます。それでも「まちがえている」かどうかを訊いてしまうところに、雪ノ下雪乃の揺らぎがあり、その揺らぎは経験してきたコミュニケーションの多義的なズレに起因しているでしょう。「言葉と現実」のズレを読み込むように、他者との距離感や関係性を探るように、「まちがえ」ないよう迂遠な言葉、遅延的な言葉で了解を取ろうとすること自体が他者とのコミュニケーションの基盤の不安定さ(「命がけの飛躍」)を意味していますが、意味のズレについて確定的な身振りができない態度の表れとして、そのようなもどかしさや煩わしさがなければ他者との非対称性に敏感にならないでしょう。

迂遠な言葉は意味の宙吊りやズレに対する不安を示すものです。ですから、ロマン主義的な心性でもある「本物」を希求してしまうのは他者との差異における薄皮一枚分の欲望ともいえるでしょうか。

 

比企谷八幡が関わらずともプロム企画は順調に進行していきます。

思わず一色いろは雪ノ下雪乃の「優秀さ」について「依存」しない様に助言をするシーンがありますが、これは6巻が念頭にあるからでしょう。助言を受けた一色いろは比企谷八幡を「過保護」と評します。あるいは「お兄ちゃん気質」とも。女性との関わり合いのなかで、比企谷小町ロールモデルとしてあり、比企谷八幡にとっては無自覚である種の自己防衛的な身振りになっていることが読み解けるでしょうか。それこそ「まちがえ」ないようにするためでも身振りであるわけですが、しかしそれは適切であるのか、他者に対して倫理的にどうなのか、というのが一色いろはの質問の意味ともなっていきます。

比企谷八幡の他者との関係性にある危うさが見え隠れします。ある意味では「過保護」は雪ノ下雪乃の主体性の問題とも結びついており、雪ノ下陽乃が言った信頼とは異なる「依存」を意味しているでしょう。その身振りに潜むグロテスクさを倫理的に問うているように。

 

プロム企画を背景に部活動がなくなった比企谷八幡由比ヶ浜結衣と買い物に行きます。比企谷小町の合格祝いというエクスキューズがなければ誘えない部分は変わらずありますが、最終的には「手作り」のプレゼントに落ち着きます。1巻の時点で「手作り」の意味合いは問われていましたが、それを想起することは難しくないでしょう。

ここでは対比的ともいえるかは曖昧ですが、由比ヶ浜結衣とインテリアの雑貨を眺めるシーンでは「本物」なのに「作り物」みたいな違和感が述べられています。よく出来ていることには違いないが、「交換可能」であるためでしょうか。誰にでも置き換えることができ、あるいは匿名的でもある。具体性を伴っていない。このインテリア雑貨のシーンでいえば、具体的な生活感といった馴染んだ性質といったビジョンや関係性が「本物」であり、つまり倫理的な意味合いを孕んでいるわけですが、人の手による味わい=真心には交換不可能性こそが具体性をもたらすように、匿名的ではない固有的な単独性が示されています。

 

そして、物語としてはプロム企画に問題が浮上して先行きが怪しくなっていきます。

雪ノ下家の母と雪ノ下陽乃が登場し、保護者達による懸念が語られます。ここで示されている「コンプライアンス」や「ポリティカル・コレクトネス」も「言葉と現実」のズレともいえるでしょうか。イメージが先行している。実態とはズレている。プロムの持つ共有概念としてのある種の「不純さ」も、そのねじれとして表面化しているような心地。

たとえば企画そのものに乗り気ではなかった比企谷八幡もプロムを実際に体験、言語化する「ローカライズ」を経ることで理解することができましたが、外野からはイメージのズレだけが「正しく」先行している状況といえるでしょうか。

 

「……まだ『お兄ちゃん』するの?」

(…)

「雪乃ちゃんが自分でできるって言っていることに無暗に手を貸しちゃだめだよ。君は雪乃ちゃんのお兄ちゃんでもなんでもないんだから」

(…)

「そういうことじゃ、ないです」

弱々しく、震えるような声はしかし、はっきりと否定する。それに優しく背を撫でられたような気がして、反射的に顔を上げると、由比ヶ浜が陽乃さんを睨みつけていた。

「……大事な人だから。助けたり、手伝うのは当たり前です」

「大事に思うなら、相手の意志を尊重してあげるべきだと思うけどね」

(…)

「プロムが実現したら、母は雪乃ちゃんへの認識を多少は改めるかもしれない。もちろん雪乃ちゃん自身の力でやれば、だけどね。……それに手を出す意味、わかってる?」(…)

重い問いかけだった。それはつまるところ、彼女の将来に、人生に、責を負うことができるのかと、そう問われた気がした。そんな問いに軽々しく答えられるはずがない。俺たちは後先考えずに動けるほど幼くはないし、全てを受け止めきれるほど大人ではないのだ。(P336-338)

 

比企谷八幡の「お兄ちゃん気質」は、頼られることをつうじて他者の主体性を「依存」という形で歪めてしまう。 雪ノ下雪乃の「依存」と比企谷八幡の「過保護」。ある意味では分かち難いといえるでしょうか。主体性を奪ってしまうことに対して、倫理的にどうなのかと問いかける雪ノ下陽乃。手を貸すこと自体が雪ノ下雪乃の主体性を妨げる可能性があり、そのことに対する責任=応答可能性はあるのかと。主体性を問うようにして、「子ども」と「大人」で揺れるモラトリアム性。「成熟」と「未成熟」の間で生きることの意味を物語は描いています。

『俺ガイル』は「成熟」として諦念を引き受ける姿を雪ノ下陽乃平塚静を描いてきましたが、諦念や違和感を飲み下す前段階・位相で揺れていること自体がモラトリアム的な時間的・空間的な象徴といえるでしょう。その狭間、途上に立っているように。

ロマン主義的な心性で「理想」を求め、違和感が差し込まれる度に諦めて現実主義的に転倒してしまう。「成熟」の証しであるから。それが真に掴めるかどうかの希求という抵抗自体が理想主義的でありますが、ここでは見事に過渡期にあるキャラクターたちの実存をとおして「淡い」が表現されています。

 

共依存っていうのよ」(…)

「ちゃんと言ったじゃない、信頼なんかじゃないって」(…)

「あの子に頼られるのって気持ちいいでしょ?」

蕩けた声が耳朶を打ち、頭蓋が痺れる。(…)共依存共依存たる所以は依存する側だけにあるのではなく、依存される側のほうにもあるのだと。曰く、他者に必要とされることで自分の存在価値を見出し、満足感や安心感を得ていると。

単語単語のイメージが実情に結びついていく度に、足元がぐらつくような感覚がした。

何度も教えてもらっていた。甘やかしている自覚がないのかと指摘された。頼られて憂いそうだと言われていた。その都度、お兄ちゃん気質だと仕事だから仕方ないのだと、嘯いて。

羞恥と自己嫌悪で吐き気がする。なんと醜く、浅ましいのだ。孤高を気取りながら、頼りにされれば満更でもなく、あまつさえ愉悦を感じ、それをして自身の存在意義の補強に当てるなどおぞましいにも程がある。無意識に頼られる快感を覚え、卑しくもそれを求め、そして求められなかったことを一抹の寂しさなどに偽る。その品性の下劣さ、醜悪極まる。

なにより自己批判することで、自分に言い訳をしていることが心底気持ち悪い。

(…)

「だけど、その共依存も、もうおしまい。雪乃ちゃんは無事独り立ちして、ちょっと大人になるんだよ」(P346-347)

 

比企谷八幡の関わり方、雪ノ下雪乃の主体性の問題を端的に名指すかのように、雪ノ下陽乃は「共依存」として、名前がなかった関係性に名前を付けました。言語化を通じてイメージや言葉がふくらんでいきます。

優秀な雪ノ下雪乃に頼られることが嬉しいだろうと。「過保護」に引き受けて、相互承認関係となり、対象が「優秀」であればあるほどに自分の有意性を感じるだろうと。

10巻で葉山隼人に問われた際に、依存先の挿げ替えを気づかなかった比企谷八幡。彼の「お兄ちゃん気質」が無意識的であったためで、それを指摘されたのが12巻でもありました。

潔癖的な自己嫌悪が止まらず、それに対して自己批判という形での自己評価をしている自意識から逃げられない苦しみを言い訳にしている運動性も、また自己嫌悪の循環を意味していることを比企谷八幡は潔癖ゆえに自覚しており、だからこそ自意識の檻から脱け出すことはできません。潔癖的であるはずの内省的な欺瞞が見事に一人称視点で語られています。

しかし、もちろん名付けることの暴力性はあるでしょう。雪ノ下陽乃の優位性、非対称性がみえるようですが、その言語化も彼女の主観的な結論の一つには過ぎません。幾度も確認してきたように、「言葉と現実」はやはりどこかズレてしまうから。ここでは比企谷八幡はその言葉に対して主観的にはリアリティを獲得してしまっているのは重要でしょうが、「共依存」という状態、本来的な他者との非対称性がその名のもとでは奇妙なねじれを伴って、ある意味では対称的な錯覚を覚えること自体のズレという非対称性(私と他者/言葉と現実)を倫理的に指摘していることでしょう。前期では「他者の不在」があり、後期からは「他者の発見」といったように、倫理的位相と交通が他者との倫理的なズレを抱き込みながらも、受動的コミットメント的に関わっていくなかで構築されていった他者との関係性の歪み(非対称性)を倫理的に捉え返そうとする言葉の魔力が「共依存」という言語化をとおして描かれています。

しかしながら「言葉と現実」のズレをコミュニケーション的に、他者論としてみてきた本論ですから、ここでもズレが横たわっているとみるべきでしょう。ここでは当事者がリアリティを抱いてしまっていることがズレを埋めているような主観的な感覚であり、他者とのコミュニケーションにおける非対称性(私と他者/言葉と現実)を体験してきたにもかかわらず、雪ノ下陽乃の言葉は「真実めいて」聞こえてしまったという錯覚が重要になるでしょう。錯覚=仮構的なねじれに違いなくとも、リアリティを感じ取ってしまうこと。もっともらしさが意味を過剰にさせます。敷衍していえば、言葉が抱える空虚さという記号性から出発することでしか、言葉で書けないことを言葉で書くほかない「豊かな矛盾」を抱えている「文学」という錯覚=仮構性と重なるとみることはできるでしょう。小説が書かれ、読まれる言葉のリアリティが重要なように。言葉が言葉である以上、そこから抜け出すための磁場があり、そして魔力という運動性があるように。雪ノ下陽乃の主観的な言葉一つを、比企谷八幡もそのまま受け取ってしまったことで非対称性はアイロニカルに覆い隠されています。アイロニーが間主観的にはたらいているともいえるでしょうか。その仮構的なねじれに対する言葉は、雪ノ下陽乃からすれば倫理的なものですから「言葉と現実」のズレよりも、彼女の「正しさ」が優位性を獲得してしまっているのは見逃せません。

 

雲行きが怪しくなったプロム企画に関わろうとする比企谷八幡に、「なぜ関わろうとするのか、理由を言語化しろ」と平塚静が言います。それに対して振り絞るように「約束したから」と答えるのは9巻を思い出させますが、ここでは動機の言語化について主体的に「沈黙」をしてきたともいえる受動的コミットメント的な比企谷八幡の思考が語られています。他者から咎められても、なぜ関わろうとするのか。

「信頼できない語り手」である比企谷八幡の「沈黙」は物語構造的なものであり、言葉の迂遠さや受動的コミットメントの非対称性を常に担保するものだといえるでしょう。他者と言葉のねじれとして。

雪ノ下雪乃のもとに行くことを由比ヶ浜結衣に伝えると、彼女は涙を流します。涙の理由は「沈黙」があり、ここにも両者の距離とズレがある。その本心は直後のinterludeで語られますが、今まで比企谷八幡の一人称視点で語られてきた『俺ガイル』では、10巻の「手記」以降の特徴として、語り手以外のキャラクターたちの多声的・多角的な「沈黙」を破るための語りが挿入されていきます。

比企谷八幡が「分からない」ところは語ることができませんし、また「信頼できない語り手」を両立するためにキャラクターの個性を活かした一人称視点を採用していたともいえますが、同時に一人称視点での限界も突き付けているといえるでしょうか。キャラクター文芸ならではの多様なキャラの立て方、その自意識のプリズムは一人称視点の「私」を引き受けることで、従来の語り手の比企谷八幡との非対称性と「沈黙」を指摘しながらも、キャラクターたちの意識を構造からくぐり抜けることで接近していくための「私」という遠近感と差異の叙述があるでしょう。

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