おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(13)

11巻はバレンタインイベントを中心に、チョコのように甘い空間とビターであろう「違和感」について両義的に描写されていき、コミュニティの問題として他者との関係性と「私」の主体性を巡るものとなっていきます。

 

あの教室の、あの場所が暖かそうだったのは、暖房が近くにあったからではない。内側に入って、隙間をちゃんと埋めたからだ。

きっと、葉山が、そして皆が望んだように、劇的に終わることなどなく、穏やかに暖かに最後の時を迎えるのだろう。それこそ、世界や人生が終わる時のように。幸福や平和は誰かの努力によって保たれているのだと実感する。

あるいは彼らも彼女たちも、いくつかの冬を越えたことで経験則として春が来ることを理解しているのだろう。(P17)

 

葉山隼人たちを眺める比企谷八幡の語りは、他者との近さによる関係性の「温存と変化」を示唆しています。特に後期、7巻以降の葉山隼人たちのコミュニティの保存と温もりは自分たちの奉仕部にも遠近的にも重なっていきます。これまで「仮構的」なスクールカーストを飛び越えて相互に関わり、二重写し的ともいえるような「昼」と「夜」の交点でもある2つのグループは並行的な価値観として描かれてきました。

そして、2つのグループはパラレルに違うルートに――主体的に「選ぶ」か「選ばない」かの選択肢として――分かれていくのが、12巻からの流れといえるでしょうか。

 

比企谷八幡は意を決して「先送り」にしてきた由比ヶ浜結衣との「約束」について、踏み込んで予定を訊きました。しかし、由比ヶ浜結衣の返答は曖昧なものであり、その「沈黙」の理由を比企谷八幡には知る由もありません。具体的に語る術を持ちません。他者との差異が横たわっている曖昧ともいえるでしょう。

由比ヶ浜結衣の見ている視線の先には奉仕部の扉があり、ここの会話にはいない雪ノ下雪乃の存在を意識していることは明らかでしょう。前提にある関係性の話として、見ているものが最初からズレている。今、この瞬間でさえ見ている他者との風景と内面による目線は一致しません。他者との非対称性。目線と思慮の不一致は、他者との差異化された不均衡な一幕といえ、言葉だけが上滑りをしていきます。

 

部室の様子はあのころからずいぶんと変わった。

薄くかけられた暖房やティーセットやブランケット、積み上げられた文庫本の数。椅子の数や物の配置。差し込む陽光の加減と壁に掛けられたコート。

春の終わりに冷たい色遣いだったあの部屋は気づけば暖かな色彩に満ちていた。

それが季節の移ろいによるものなのか、あるいは他の要因によるものなのかは判然とはしない。(P60)

 

奉仕部内の関係性と時間と空間の変化を彩る風景について語られています。比企谷八幡は「他の要因によるものか判然とし」ていませんが、思考のバラつきと目線は無意識的に「窓の外」にやることで、「判然として」いないにもかかわらず気恥ずかしさをある意味では了解しているように告白しています。

比企谷八幡の「語らなさ」は「信頼できない語り手」としての側面があります。あるいはメタレベルに位置して読んでいる読者との非対称性でもあり、関係性と「言葉」を巡る物語展開ではキャラクター同士のある種の宙吊り的な会話に読者はメタレベルにいるからこそ疎外されて了解が取れない現象が起きますが、そのズレを倫理的に読むことが言葉で書かれるほかない小説を読むことの豊かさになるでしょう。

 

来訪してきた一色いろはによってバレンタインチョコを作る企画が提案されます。それを機に部室には依頼者が続出するなかで、一見するとハーレム状態な比企谷八幡の構図がありますが、必ずしもベクトルが彼に向いているわけではなく、むしろ男性であるという点で女性同士の牽制から疎外されているとも受け取れることが重要でしょうか。

一色いろはを主導に順調に企画が進行していく様を横に見ながら暇を持て余すかのように、「依頼」「仕事」がなければ不安に陥っている比企谷八幡の受動性については両義的であるといえます。受動的コミットメントと能動的デタッチメント。この受動性は主体性の話でもあり、これまで比企谷八幡の「相対化」によって「依頼」はある意味では遂行されてきましたが、その一方で他者の動きを抑制してきた物語的な反動的側面があります。比企谷八幡の物語の「清算」における「負債」ともいえるでしょう。そのことがキャラクターの「自立」を促しにくいことにつながり、物語としては雪ノ下雪乃の「依存」=主体性が倫理的に問われていくことになります。

 

俺の悪癖だ。

任せることができない、というのは信じることができないというのに等しい。

そんな人間に、信頼なんてものがわかるはずもない。ましてや、信頼によく似たもっとひどい何かになんて、思い至れる道理がない。(P79)

 

孤独的であった比企谷八幡アイロニーといえるでしょうか。前期の「他者の不在」から、後期の「他者の発見」といった倫理的位相に移行したからこその自意識と他者との関係性を巡るズレが見えてきます。

「悪癖」であると自覚していますが、孤独をとおしてきたからこそ経験的に修正できない主体的な意志の問題として、比企谷八幡の他者との関係性の構築に伴う弊害といえます。

 

他者を想うことが交差するバレンタインイベント。他者との距離感や親密度を探るようにして関係性が温かく明示されていきます。

あるいは、思い通りにならない現実とのズレのように、他者との無限の差異は言葉で構築していくごとに「言葉と現実」のズレとして表れるように。

葉山隼人は「みんな」を思うことで、場を調停します。「みんな」に期待されている「葉山隼人」であるから。彼なりの倫理的規範がもたらす行動の結果といえるでしょうか。10巻で明るみになりましたが、主体的に「選べない」からこそ誰かを守り、同時に誰かを傷つけている。「みんな」を最優先することは最大公約数的な行動でありますが、その加害性/被害性はこれまで幾度となくみてきた通りでしょう。そのこと自体に傷ついているのも葉山隼人というのがネックともいえますが。

 

「そういえば、隼人は昔、雪乃ちゃんから貰ったよね?」

葉山に語りかけるようで、その実、この場にいる誰しもに聞こえるような声音。(…)

雪ノ下は陽乃さんの言葉を否定することはなく、代わりに困ったようにちらと俺を見田。

その表情は、いきなり掘り起こされた昔話に面食らって戸惑うようで、唇は浅く噛まれ瞳はそわそわとせわしない。

たぶん、俺も同じ表情をしていたように思う。痰が絡んだみたいにぐっと喉奥に何かが詰まり、消化不良を起こしたような胃の奥でごりごりと何かが蠕動する不快感があった。

雪ノ下が顔を俯かせ、俺もまた視線を逸らす。その視線の先で、由比ヶ浜は俺たちを気遣わしげに不安そうに見つめている。

短い沈黙。 (P179-180)

 

バレンタインチョコをとおした人間関係が交錯しているシーンで、雪ノ下陽乃の「嗜虐」的な発言によって微睡んでいた空間に亀裂が走ります。「沈黙」の意味。雪ノ下雪乃のみならず、この「沈黙」には語り手の比企谷八幡も含まれています。どうすればいいのか分からないように、多くを語らない。言葉を発さずとも反応や「空気」が雄弁に語るような「沈黙」。視線などの身体的な反応はあるにしても、不快感の言語化はされない。他者も同様に。その意味では「沈黙」を通したディスコミュニケーションにおいて奇妙な一致をみているといえるでしょうか。

「言葉にできない不自由さ」、「空気」や文脈、想いが多分に含まれている「沈黙」の理由。「沈黙」の多弁さは同時に「言葉にならない言葉」が常に横たわり、「空気」の静けさに回収されては敏感にならざるを得ません。あるいは、広義の意味で捉えれば雪ノ下雪乃の「沈黙」が彼女の主体性を問うものに移行していくのも後期の特徴といえるでしょう。それは雪ノ下雪乃の「分からなさ」であり、他者との絶対的な差異となっています。

 

「違和感がある、か。……その違和感を忘れないでほしいなぁ」

(…)

「それはれっきとした成長の兆しだと私は思うんだ。大人になるとそういうのをうまく流してしまえるようになる。だから、今、その違和感をきちんと見ていてほしい。大事なことだよ」

「大事なものは目に見えない、とも言いますけど」

(…)

「目で見るな、心で見るんだ」

「考えるな感じろ的なことですか。フォースじゃないんだから……」

(…)

「逆だよ。感じるな、考えろ」

言い直した表情は先のような冗談めかした顔ではなくて、真摯な優しい眼差しに満ちていた。語りかけることはゆっくりと、静か。

「その違和感についてずっと考えなさい」(P187-188)

 

「モラトリアム」と「成熟」を巡る話といえるでしょうか。モラトリアムについては「先送り」が相当すると既に記していましたが、「成熟」は後期になって対比的に表れているといえます。「成熟」して「大人」になることは「違和感」を「受け流す」ものであるからこそ、「違和感」の重要性を説く平塚静。「思考すること」を投げかける平塚静の言葉は9巻の反復を想起させ、ある意味ではその延長と捉えることは可能でしょう。

ここでは「変化」を拒否していた比企谷八幡の変化がみられます。当人には自覚はなくとも、外界(倫理的位相・他者の発見)との関わりにおいて変化は起こっている。

前期でいえば、独我論的な潔癖的倫理観として評していたであろう「他者の不在」による潔癖性は、他者との交通を経て、倫理的な問題は他者との関係性にある後期に移行したのちに独我論的な意味合いは徐々に鳴りを潜めていることは見逃せないでしょう。具体的な他者性――そのこと自体が「変化」であります。

バレンタインイベントで他者の温かさに触れ、現状を楽しいと呟く比企谷八幡

同時に、チョコを食べられるくらいには作れている由比ヶ浜結衣の成長も描かれ、出会った当初の時間からの成長と変化を感じさせます。充実としたイベントと関係性。

しかし、雪ノ下陽乃はその「違和感」を見逃さなければ、比企谷八幡も同様に潜在的ではありますが、「正しいのか」と倫理的に問うている姿も印象的でしょうか。

 

「それが比企谷くんのいう本物?」

言われた瞬間、ぞくりと背筋に寒気が走り、思わず陽乃さんから顔を背ける。だが、陽乃さんは逃げることを許さず、一歩俺と距離を詰めた。

「こういう時間が君のいう、本物?」(P212)

 

安易なラブコメに落とさないからこそメタレベル的にいえばタイトル通りの『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』になるわけですが、関係性の停滞/温存にみられるのは雪ノ下陽乃からすれば「本物」をエクスキューズとした欺瞞に映るのでしょう。それは彼女なりの「正しさ」の表明であるからです。

比企谷八幡のいう「本物」は関係性、コミュニケーションのある他者との倫理的な「対称性」であります。

しかし、雪ノ下陽乃からみればこの状況・関係性は「本物」ではなく、欺瞞的ではないかとする捉え方になっているのは、「対称性」としているはずの比企谷八幡の「欲望と本音」に即しているのかどうかが重要だからでしょう。

本物=対称性はあるのか、と。

ここでは明らかになっていませんが、むしろ、雪ノ下雪乃の主体的な問題を主題(「依存」)としていくなかで非対称性は拡大しているのではないか、と。

また、由比ヶ浜結衣ともそうです。関係性のねじれがあるのではないか。

「対称性」は他者と、「言葉と現実」のズレと不均衡を均すものであります。ねじれの解消を図ってしまうのが「本物」であるならば、比企谷八幡が安穏としている関係性は非対称的な産物であり、単なる心地いい空間を「本物」のように解釈することは違うのではないかとする、雪ノ下陽乃の「嗜虐性」と「純粋さ」が内包されている倫理的な投げかけともいえるでしょうか。

 

自分自身でさえ、それが自分らしさだと言えないのなら。なら、本物は。本当の俺たちはどこにいるのだろう。そんな人間にどうして、関係性を規定することなどできるだろう。

違和感と、そう名付けてしまったらそうとしか思えなくなる。

きっと、この感情も関係性も定義してはいけなかったのだ。名前を付けてはいけなかった。意味を見出してはいけなかった。意味づけされたら、他の機能を失ってしまうから。

型に当て嵌めることができたなら、きっと楽だったのにそうしなかったのは、知っていたからだ。一度、形作ってしまえば、後はもう壊す以外に形を変えることなんてできないことを。

壊れないものを求めたがために、それに名前を付けるのを避けていた。(P223)

 

自己イメージ、アイデンティティとのズレが自分自身でさえままらないのに、他者との無限の差異は「絶対的な分かり合えなさ」というズレとして露呈します。固定的なバイアス、主観のねじれはアイロニカルに起因してしまう。主観性の問題は、他者に向ける眼差しの暴力性を内包するでしょう。

また、名前を付けること、型に嵌めることで固定的になることへのリスクに対して、型に嵌めないまま意味を宙吊りにする抽象化によってリスクを回避しようとする心理があります。そのことが名付けない=選ばない関係性の「温存=停滞」だったとするように。

この内面の語りは倫理的な捉え返しともいえるでしょう。名指すことは、具体的に言語化することです。意味の宙吊りから言葉にすることの不安、あるいは言葉そのものへの懐疑。噴出している「違和感」は「本物ではない」とする現実的に差し戻されている自意識の産物でしょう。

「言葉と現実」がズレるからこそ、あえて定義しないのは立ち位置を明確にしない防衛心理です。名指すことで壊れてしまうから。微温な関係性が内包しているリスクから目を逸らすデタッチメントな防衛的な態度を取ることで、宙吊りとされた抽象性を寄る辺とする「本物」にかこつけたかのようなロマン主義的な心性が見え隠れします。

「本物」を求めることが目的とするならば、その目的性に則った共同性だけが培養されることは「本物」になり得るのか、と倫理的に問うたのが雪ノ下陽乃の言葉だったと捉えることは可能でしょうか。その共同性は欺瞞ではないか、というように。

このままの関係性であることを許さない「本物」を求める自意識のねじれは、現状維持を選択した葉山隼人たちとの相対化となるでしょう。ですから「本物」を求める「転倒」が青春の味わいともいえ、「違和感」を受け流せない潔癖的な瑞々しさがあります。

もはや「まちがい」続けたからこそ辿っている「まちがい」のルートのような心地は、やはりラブコメとしては「まちがって」いるかもしれません。その迂遠な欺瞞に目を瞑ることも可能でしょう。

しかし、比企谷八幡にみる倫理的なズレを呼び込むような語りは、潔癖的な青春の葛藤や「自意識の産物」からすれば「まちがう=転倒する」ことで、「モラトリアムと成熟」の狭間で揺れる心理のグロテスクさを逆説的に描くことができるといえます。

 

物語としては、雪ノ下陽乃から雪ノ下雪乃の主体性が問われています。振る舞いのぎこちなさは、雪ノ下雪乃の「私」の揺らぎであり、彼女の「沈黙」は作品構造的には「彼女らしさ」を意味していますが、ここでは「語らない/語れない」主体性そのものが倫理的に指摘されている。

『俺ガイル』は比企谷八幡の「私」ばかりがクローズアップされる物語であり、語り手による一人称視点がその「近さ」を演出しているといえるでしょう。

しかし「信頼できない語り手」であるから、逆説的に「私」の問題――「沈黙」している自己意識が浮き彫りになります。あえて、あるいは自然と語らないことも含めて、他者の問題とそれらを巡る差異としての「私」の問題であることが分かります。

ですから対置としてロマン主義的に、あるいは詩的直観的に「本物」という「対称性」があり、「他者と私/言葉と現実」の非対称的感覚としてキャラクター間のコミュニケーションの文脈に即した他者論的な物語の意味を見出すことにつながっていくでしょう。

 

積極的には近づかず、けれど、自分から引くようなこともせず。

意識して、明確に線を引いて、はっきりと蓋をして、いつもより鈍らせて、もの思わぬようにして、賢しらな観察者たらんときわめて自覚的に卑怯な立ち位置を取り続けた。

抱いてしまった違和感を、違和感だと認識しないように、距離を保とうとしてきた。

それは、ただまちがえないようにするためだけの行為で、たったひとつの正解なんかじゃないことはよくわかっている。なのに、それを飲み下そうとしている。

だから、あの人には見透かされてしまったのだろう。

また、身の内から俺を苛む声がする。

そんなものが比企谷八幡か。そんなものが貴様の願ったものか。(P260)

 

コミュニケーションの多義的なズレ、そして「言葉と現実」の非対称性が倫理的に問われてしまうからこそディスコミュニケーション的に他者との距離を置いてしまう。デタッチメントという防衛心理。「対称性」には程遠い心性であります。他者と言葉のズレに対して、警戒しているために反応してしまう生理的な距離感であるといえるでしょうが。

比企谷小町の受験当日、由比ヶ浜結衣から誘われる形で雪ノ下雪乃を含めた3人でのデート。雪の降る千葉という非日常性。感傷的な風景も相まって比企谷八幡の内面は複雑ではありますが、揃って水族館に赴きます。

この「水族館」はメタファー、寓意性に彩られている風景になるでしょう。目に映る生き物たちの生態に、自分たちの境遇を重ねてみてしまう。「私」と他者の遠近感ともいえるし、過剰な意味の読み込みともいえるでしょうか。必要以上に意味が満ちている箱庭的な水族館で、自分たちの箱庭的ともいえる関係性を照合してしまう過剰さの噴出。

そこから、3人は周遊できる閉鎖的な水族館から循環を描く観覧車へと向かいます。

 

いつも通りの会話で、日常の空気で、俺たちらしいとそう言えると思う。なのに、足下は不確かでぐらぐらとしている。

観覧車は段々と高度を下げていく。

不安定を偽りながらゆっくりと回り続ける。前へ進むことはなく、ただ同じところをいつまでも、ぐるぐると。

それでも、やがて。(P305)

 

水族館と観覧車は循環のメタファーを含んでいます。どこにも行けない閉鎖性と箱庭的な関係性を寓意化している。

『俺ガイル』では幾度となく反復性から生じる物語構造が表現されてきましたが、その反復的に周遊している様はモラトリアム性=「先送り」と重なっており、「私」の自意識を巡る構図をなぞるような形となり得てきました。

ぐるぐると回りながらも「終わり」を意識するような観覧車を降りてオーシャンビューに舞台を移動すると、由比ヶ浜結衣比企谷八幡に「お礼」として手作りクッキーをプレゼントします。1巻の「依頼」からの成長と想起させるように。

 

「もし、お互いの思っていることわかっちゃったら、このままっていうのもできないと思う……。だから、たぶんこれが最後の相談。あたしたちの最後の依頼はあたしたちのことだよ」

何一つ、具体的なことは言わなかった。口に出してしまえば、確定してしまうから。それを避けてきたのだ。

うっすらと、ぼんやりと、その事実に名前を付けないままに彼女は話す。だから、俺と由比ヶ浜と雪ノ下の思い描く事実がまったく同じものだなんて保証はどこにもない。

けれど、このままではいられないという、その言葉だけは真実に思える。(P312)

 

ここで交わされるやり取りは、もはや決定的な言葉を言わない意味の宙吊りされたものです。もちろん簡単に一言で済ますこともできますが、そうしないのは確定してしまうから。名指されてしまうから。あるいは「まちが」えてしまうから。言葉は常に現実とズレ、他者との「絶対的な分かり合えなさ」の差異として露呈するから。言葉はそれだけ魔力的であり、矛盾するように貧しいから。

さらにいえば、仮に具体的な言葉に託してみても、それが共通認識的な見解であるかどうかは別の話でもあり、その意味で「言葉と現実」はズレる空虚さを内包しているといえるでしょう。

雪ノ下雪乃の問題は彼女の主体性であり、それが他者への「依存」的に映ってしまう。まさしく「寄る辺」を求めてしまう。だから、雪ノ下雪乃は「沈黙」を物語構造的には強いられるといえるでしょうか。それを抑制しようとする甘いエクスキューズのある由比ヶ浜結衣の「言葉」は、主体性を他者に委ねるような「依存」を「温存」するものであり、比企谷八幡の「正しさ」からすれば「欺瞞」とする倫理的なものになるでしょう。

あるいは「本物」でもなければ、雪ノ下雪乃の「沈黙」の空隙に託けるような非対称性の暴露に過ぎません。その提案を撥ねつけるのは比企谷八幡由比ヶ浜結衣との非対称的な倫理的な結論ともいえるかもしれません。

比企谷八幡の倫理の志向性は、雪ノ下雪乃の主体性の問題とつながっており、他者に委ねるのは「まちがっている」とするものです。それは主体性を「先送り」にしているのと同義であるから。

しかし、由比ヶ浜結衣はその比企谷八幡の「倫理」を折り込んで提案したようにみえます。自発的に動くことで関係性の「歪さ」や「沈黙」の主体性を矯正しようとしたとも。

 

由比ヶ浜結衣は優しい女の子だ。そう勝手に決めつけていた。

雪ノ下雪乃は強い女の子だ。そうやって理想を押しつけていた。

そう言って、ずっと甘え続けてきたのだ。でも、だからこそ、委ねてしまってはいけない。その優しさに逃げてはいけない。その優しさに嘘で返してしまってはいけない。

(…)

「……それに、そんなの、ただの欺瞞だろ」

(…)

「曖昧な答えとか、なれ合いの関係と……そういうのはいらない」

欲しいものは別のものだ。

(…)

こんなの正しくないってわかってる。楽しいと、そう言えるならそれでよかったのかもしれない。ありえた未来や綺麗な可能性を想って過ごせたなら、誰も苦しくなんかならないだろう。

それでも、俺は理想を押しつけたい。微睡みの中で生きていけるほどに強くはないから。自分を疑った末に、大切に思う誰かに嘘を吐きたくはないから。

だから、ちゃんとした答えを、誤魔化しのない、俺の望む答えを、手にしたいのだ。

(…)

「……ヒッキーならそう言うと思った」

(…)

俺と彼女の願いは目に見えない。けれど、たぶんその形はほんの少しずれていて、ぴったり重なり合ういはしないのだろう。

だからといって、それが一つのものにならないとは限らない。(P316-317)

 

 

比企谷八幡の潔癖性と倫理の志向性といえるでしょうか。

他者との差異や非対称性があったとしても、必ずしも共同的に一致しないとは限らない。差異を起点にくぐり抜けた合同的な連帯感の兆しをみています。

それぞれの想いを告白しながらも、具体的には言語化せずに進行する応答はコミュニケーションの欲求がディスコミュニケーション的に転倒しているように映ります。

しかし、コミュニケーションの非対称性(他者と私/言葉と現実)との不可能性を意味しながらも、一つの型にハマることとは限らない「現実」の複雑性をみる視線と言葉への距離感は、言葉に託すしかない祈りと抵抗感といえるでしょうか。一言で言えばいいのに確定できない「単純化の拒絶」は『俺ガイル』の迂遠な「まちがい=ズレ」が生んできた物語構造そのままでしょう。

言葉で世界を分節する、あるいは遅延的に構築していくような感覚。

しかし、どこかで常に他者と同様にズレてしまう。それでも言葉にするしかない倒錯性を引き受けることが言葉にする意味であり、「小説」の持つ物語の立ち上がり方と重なっていくことでしょう。

どこかがズレていて、どこかが重なっているような共同的にみえるプリズムは、「命がけの飛躍」をとおして他者との無限の差異を起点とした応答可能性の「場」となります。さらに敷衍していえば、小説を読むことで立ち上がる他者との共同的な「場」における間主観的な可能性をみることができるように、空虚に映ってしまう言葉の倒錯性には、それが信じるに値するような錯覚的(迫力)であったとしても他者への志向性がみてとれます。

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