おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』2巻 非同期的な不完全的なコミュニケーションの始まり

ボッチであることを正当化する内省は、比企谷八幡自身の矜持のように描かれています。

群れることを弱い草食動物のように例え、逆説的に孤高であることを強さとする。ボッチであることを正当化する逆説的な理屈は、1巻の「青春」における「正義と悪」を連想させます。「青春」側である「あちら」を「悪」とするならば、そうではない「こちら側」は「正義」であると。自分自身のタフさを引き付けようとしています。

相対的にいえば群れることは弱く、群れない「こちら側」は強い。草食動物と肉食動物の比喩のように。温存されている二項対立的な支えが無いと、その理論自体は成り立ちません。「あちら」を揶揄しながら「こちら側」を補強するための方便です。これ自体は「あちら側」を単純化し、記号的に見ていることの所作でもあります。群れることは個性を「空気化」するので、認識しきれずに埋没してしまう。流行に乗っかれば、全員が画一化すると同じように。個性は個性的であろうとすると、個性自体が脱色してしまいます。

そういった認識、つまり記号化や画一化が働くことは、ある種の認識不足でもありますが、「あちら側」へと追いやるように単純化した記号的理解が奥行きを見せないように「こちら側」が前景化しているとも言えるでしょう。そのための比企谷八幡のモノローグでもあります。

群れている「あちら側」を草食動物とし、草を食いながら仲間も食い物にしているとする比喩は「空気」の支配が持つ力そのものを意味しています。それによって各々のポジションが左右されますし、「空気」が党派性を選別する作用を持つとも言える。「あちら側」か「こちら側」かに分け、その段階も実際はグラデーション的でしょうが、『俺ガイル』では単純化した二項対立を「建前」的に温存しているので明快な党派性を帯びています。

比企谷八幡のボッチ理論も「空気」からはみ出すことで、ある意味では二項対立的な党派性を正当化するものであります。同じようにシステム的です。「青春」というエコシステムへのカウンターとして位置しようとも、自分自身も取り込まれているために「カウンターとして」ポジショニングができるだけで、システム自体に支えられていることは見逃せません。「内から外」に出ようとする力さえもシステム的な循環にあると言えます。対抗言論として「外」にいようとしているけども、「内」なるシステムに支えられている位置付けは避けられません。

果たして「外」なんてあるのでしょうか。

「外」は、「外」に見えるものは「内」に織り込まれているものに過ぎないのではないでしょうか。その余剰として「外」であると錯覚してしまう。このどこにも行けない箱庭的感覚は「学校と家」の往復で事が済む学生時代、モラトリアムそのものに思えてなりません。

比企谷八幡が掲げる半ばネタ化したボッチ理論というカウンターでさえも、個々人が本来的にバラバラであることを見ないで、集団における「空気」や「青春」という共同幻想によって一時的に再構成されているものに過ぎません。一つに「青春」と言っても色々あるでしょう。全てはバラバラな個人的な体験に収斂し、千差万別の記憶や語りがあります。たとえ全員である作業をやったとしても、全員が同じ記憶や認識を有しているかは別の問題でしょう。それらは共通的体験を包摂しているような個別的なものでしかありません。

しかし「青春」の御旗のもとで、それは美しくかつグロテスクに昇華されることもあります。それを「青春フィルター」と1巻の際に触れましたが、包括的な共同幻想を立ち上げるような錯覚があることが重要です。ここで述べた共同幻想は「こちら側」から見れば「あちら側を含めてそのように見える」といった記号的なものでしかない。実際「どちらにとって」も都合のいいものです。『俺ガイル』は「あちら側」の「青春フィルター」とすることで、正当化しようとする嘘を暴くことが目的でした。

比企谷八幡は主人公という特異な権利を持つ語り手です。

しかし、「こちら側」として「あちら側」を見やるという暴力性には無自覚的でもあります。自分自身がボッチであることは悪くないことであり、それ自体を否定されたくないものなのに、平気で「あちら側」を引き合いとする理論の正当化は、やはり「青春」やシステム的な支えありきと言えます。「あちら側」を悪であり、弱いとするしか、「こちら側」に正しさや強さを引きつけられない弱さや暴力性がシステム的に成立していることに過ぎません。

具体的に内容を見ていきましょう。

2巻の冒頭、職場見学希望調査票を受けた職員室での平塚静のやり取りは1巻冒頭の作文と同じ構図となっています。

この反復性は『俺ガイル』自体の構造を反映したとも言える一方で、容易に人は変わらないことを意味しています。比企谷八幡は「変わらない」ことに執着しているのだから当然とも言えるでしょう。

1巻の「まちがっている」ラブコメは、奉仕部的には自己変革を促すほどのものではなく、自分と他者の関係性がラブコメ的には「まちがっている」というメタ視点的な語りでありました。

ここで確認しておきたいのは、語り手やキャラたちは物語であることを自覚できませんし、況してやパッケージ化されたタイトルを知ることはできません。「まちがった」こと自体が、そのように「正しく」展開され、タイトルを回収するような一文(1巻の最後)を書いても、比企谷八幡の意識には当然タイトル回収は存在していません。あの最後の一文「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」を書くことで整理されるのは、比企谷八幡が抱く「まちがった青春ラブコメ」を物語レベルとして読んで、タイトルとの符号から「正しく」統合するのは作者と読者の目線でしかなく、そのこと自体はキャラ達には認識することは不可能です。1巻ラストの比企谷八幡の「まちがっているラブコメ」認識は彼自身に収斂しているだけに過ぎません。

しかし、それを物語として読むことで「まちがっている」こと自体が、恰も比企谷八幡と共有される体験が読者に付与されます。タイトルと物語内容が厳密に一致した感覚が、比企谷八幡の語り(テクスト)から読者に投げかけられ、キャラと読者の目が合うような着地をしています。ですから、この時点での比企谷八幡の執着や物語構造の反復性は、読者を通じてメタレベルでも混在していると言えるでしょう。

1巻を踏まえた、作中で「まちがっている」こと自体が反復していても、自分と他者の関係性が「まちがっているラブコメ的」であり、それで何か大きな変化を得たというよりも、受動的に巻き込まれてしまったことで「まちがっているラブコメ」が始動したと読める方が強い。比企谷八幡はただ奉仕部に入れられただけに過ぎず、この冒頭の反復によって、自己変革をするには自覚して否認する、といった意識化しないと意味がないことが分かります。

比企谷八幡が述べたことを引用すると「奉仕部は隔離病棟のようなもの」で、弱者たちによるぬるい欺瞞的なコミュニティと大差ないとしています。そういった理解から受動性は変わりません。そして「変わらないこと」が強さであるとする信条も揺らぎません。

いや、むしろ、一層反発的になるのは避けられない。その引き裂けるような力を内包した留まること自体は、二項対立的として「変わらなさ」といったような「こちら側」から「あちら側」を見やることによって均衡を保っている。

前述のように冒頭の書類の不備で平塚静に怒られる1巻との反復もありますが、やはり『俺ガイル』の魅力は一定の反復性に宿っていると考えます。比企谷八幡の思考への没入感もその一つでもあり、なかなか一定の同一性や反復性から抜け出せない。「自分」や「成長」への葛藤としての強化された保守性です。この「自分」を正当化すること自体への「祝いと呪い」が本質ではないでしょうか。これは物語が進行していけば、自然とぶつかる壁となっていきますので話を進めます。

非モテ比企谷八幡が、メールに纏わる過去を明らかにするシーンがあります。外的評価としての非モテであること自体へのコンプレックスよりも、最終的な内的評価に重きが置かれていることが重要でしょう。

相手の同情心や気遣いを無垢な優しさと取り違え、勘違いをしてしまっていたことに気付けなかったことこそが痛みだったとしています。それが誤りだと気付くまで「優しさと情け」は表裏一体の関係を結んでいた。全ては受け取る側の解釈次第であり、バイアスみたいに都合の良いように受け取ってしまう。もちろん余計に悪く受け取ることもありますが、それらは「経験と空気」によって個別的に選別されていきます。ですから「こちらとあちら」は厳密には一致し難い。相互の主観性の問題のように「こちら側」の善意が「あちら側」に正しく届くかは別の話であり、「こちら」と「あちら」の距離として表れます。 

簡単に誤解するし、してしまうことの距離は、欲望を込めて捻じ曲げようとしてしまうことに尽きます。解釈は深読みを誘い、その結果、自己責任論的に回収される。比企谷八幡の場合は敗北の経験値として蓄積されてきました。

このようにコミュニケーションは不一致を容易に引き起こす。その転倒としてディスコミュニケーションが要請されて「引きこもり性」は強化される。不一致によって個々人のバラバラの距離や差異が暴かれ、それを埋めるがために幻想としての解釈の都合の良さを引き付けようとしてしまう。

メールにしても、送った相手、届いた相手、時間帯や文面によって勘違いを引き起こす。非同期性の強いツールです。現実の身体的距離を用いず、短絡的にデバイス同士の距離を繋げるメールという機能は対面ではない分、ある意味近いにも関わらず遠い距離感を作ることもあります。この齟齬は「いつでもどこでもつながっている」という近さを引き付けながらも、身体的接触の機会や距離を使わないことによって、コミュニケーションのズレや解釈は文面でしか判断ができない情報の限定性があります。そのクローズドな情報でさえも正しく届けることは難しく、受け取れないことは往々にあるでしょう。

解釈の不一致、ズレはオンラインで現実の距離がショートカット化されていようとも、むしろ裏返しとしての現実の距離を反映させてしまう。「いつでもどこでも」つながっている距離感は、ある種の「届かなさ」さえも担保している。このコミュニケーションの遠近感はオンライン化によって加速しています。

例えば、ケータイを持っていることが当たり前の現代では、別れても「いつでもつながっていられる」遠近感は、昔のような別れとは決定的に異なります。サカナクションの山口一郎は、ケータイがあるから別れの曲が書けなくなったと言っていましたが、このような裏返しとしての現実の距離を用いることになるオンラインの遠近感も精神的に生じていきます。

たとえケータイのメモリに残っていても、実質的な別れと変わらないこともあるでしょう。「いつでもつながっていられるから」といって別れていないとは限りません。いつでもつながっているけども、「いつでも、だれでも」が選べるからこそ、「敢えて」その人を選ぶ理由が無くなってしまうように。時間の流れによって別れに近い距離感はあり、それはオンラインによって短絡化したような距離ではありません。同じカテゴリーだった者が、そこから外れることで容易に別の距離を生む。それは現実の距離そのものに他なりません。

P50 それこそ、電話やらメールやらでしか繋がらない、あるいは繋がれなくなる。それを人は友情と呼ぶのだろうか。きっと呼ぶのだろう。だから、みんな携帯電話にすべてを託し、友達の数と電話帳の登録数をイコールで換算する。

 

比企谷八幡は、このようなケータイの特性を不完全なコミュニケーションツールだと語りました。

双方向的に見えても、発信や取捨選択は送り手/受け手によって、その都度切断されている。「選択して発信する」その瞬間は単に非同期性の高い一方向的です。リアクションがあればいいですが「送ったが、返ってこない」や「来たけど、返さない」のように受け手のオン・オフによって、双方向性は一時的に成り立つ共同幻想があります。まさに「その瞬間」つながっていると思えることが重要であり、双方向性が担保されていると見える錯覚がオンラインによって新たに作られる距離と言えます。

ここでは時間や距離が個々人でバラバラであり、不完全性、つまり非同期性を短絡的に結びつけることの疑いをケータイから導入することで、本来的な個人の差異、バラつきを提示しています。裏返しとして現実の距離を映したコミュニケーションのズレは、比企谷八幡の断片的な過去を語ることで説得力を増します。「引きこもり性」のように自衛のためのボッチ化を加速させた経緯として。

さて、メールの文脈を引き受けつつ、葉山隼人の依頼が持ち運ばれてきます。クラス内で出回っているチェーンメールによって、友達の悪口を拡散されていることについて丸く収めたい、と葉山隼人は依頼を持ち掛けてきました。

チェーンメールは顔の見えない悪意の発露です。匿名性による不気味さを引き立て、根も葉もない噂を短絡的に拡散させるツールと言えるでしょう。

前述のメールの文脈をマイナスに反復させたのがチェーンメールの件と言えます。不完全な双方向性による共同幻想を瞬間的に立ち上げるメールの機能というよりも、一方向的に不特定多数に連鎖的に届くことで拡散することが目的です。

ケータイによって、メールはどこでもいつでもつながれるようになりました。既に記しましたが、発信時は一方向的であり、相手の応答があって初めて双方向性を伴います。恰もメールを送る段階で双方向的に錯覚できるくらいには物理的距離を無効化しますが、実際は現実的な距離を映し出しては「送れる」「届く」からといって精神的な距離自体が短縮化するわけではない。

しかしオンラインの距離自体は、まさに「つなげてしまえる」ので、その距離的な手続きを簡略化ができます。発信者と受け手のコミュニケーションのズレを距離的に「つなげてしまえるよう」に思えるのが、メールの一方向性・双方向性でありますが、チェーンメールはそれを一方的な拡散に扱うことで、匿名的な悪意の種子を連鎖的につなげることができる。必ずしも悪意が無いこともあります。好奇心で広めてしまうことで、チェーンメール自体に宿る悪意に加担してしまう暴力性があります。

小寺信良『子供がケータイを持ってはいけないか?』には、チェーンメールが「悪」とされている理由の一つに情報伝達の拡大率と考えられているとあります。

 

子供がケータイを持ってはいけないか?

子供がケータイを持ってはいけないか?

 

 

真偽不明の内容を拡散するチェーンメールには、情報伝達のルートが1世代前しか遡れない上に、メールという機能上の特性としてプライベートなものであり、それ以前に届いたメールの内容を確認する術がない通信的な壁が要因となっています。途中でメールの内容が改竄されていても、情報ルートが1世代前しか特定できない限定性がありながらも、開かれたように無差別に拡散するために判別が出来ない。このような拡大率が、まさに悪い意味で担保されてしまう。

P92 「チェーンメール……。あれは人の尊厳を踏みにじる最低の行為よ。自分の名前も顔も出さず、ただ傷つけるためだけに誹謗中傷の限りを尽くす。悪意を拡散するのが悪意とは限らないのがまた性質の悪いのよ。好奇心や時には善意で、悪意を周囲に拡大し続ける……。」

 

チェーンメールが発生した原因として、職場見学のグループ分けが挙がります。グループから漏れたくない、ハブられたくないといった「内輪揉め」ですが、顔色を窺うことの恐れは「集団や空気」から外れたくない一心に尽きるでしょう。

ある意味では些細なことですが、由比ヶ浜結衣が最初に気付いたのがポイントと言えるでしょう。そのようなことを「内輪」で見てきたキャラとして、グループにおける「キャラ」とポジショニングの功罪の一つがありますが、比企谷八幡雪ノ下雪乃と異なって集団に属しているからこそ分かると言えます。

誰がチェーンメールを送ったのか。

犯人探しの鉄則として「動機から考える」があります。誰がメリットを得るのか。そういった手続きを経て、グループ内に犯人がいるという推測が立ちました。

ここでは、ハブられないようにするために他人を特定的に巻き込み、悪意を拡散させながらも対象を分散させている内容でした。そこで悪意を向けられた彼らは公然と被害者面をすることができる上で、ある種の免罪符が得られることがポイントでしょう。

なぜなら、加害的な悪意自体は匿名的でありながら、被害という面では公然的であるからです。分散化した悪意のベクトルを向けながらも、同情という免罪符を得ることで等しく被害を軽減しようとして、一方向的に集中的ではなく、自然に誰かを除くために匿名的な悪意から被害者という立場を推挙させられることまでも演出できる。疑心暗鬼を含めたある種のフェアな悪意と言えるかもしれません。

比企谷八幡が述べたように対象を絞って拡散させたほうが「除く」ためには効果的でしょう。悪意を振り撒きながらも、自分自身も「加害と被害」に組み込むこと自体は「木を隠すなら森の中」的策略を連想させます。

しかし、それよりも公平的に被害者を立て、悪意を向けた敵を匿名的に立ち上げることで、等しく敵にすることで「敵の敵は味方」といった「友と敵」のような党派的に持ち込むストレートさがあるように思えます。公平的に被害者を立てたのは、自分自身は「選ばれる側」であって「選ぶ側」ではないとする、ある種の権利の行使であり、チェーンメールによって一方向的に「選別されること」をしていた。

誰が犯人であるかを特定するために、葉山隼人たちのグループを観察する比企谷八幡のシーンがあります。

「内」におらず、遠くから見ていることで分かる。

スクールカースト上位でも内部で相対的であり、葉山隼人がトップとして位置しているという事実。比企谷八幡の「葉山隼人が監督であり、観客」という見立ては正しいでしょう。葉山隼人という中心を、不在の中心である語り手=比企谷八幡が眺める構図により「外的」が担保されます。内部にいないから機能する外部的な存在は、恰も客観性という幻想を作り、言葉自体に真実味を宿らせます。

もちろん、自分自身もエコシステム的かつ箱庭の中でありますが、「内と内内」といったようなグラデーションが存在していても、より単純化された二項対立的なスクールカーストを引き立てることになります。

ここでの相対的な発見として、葉山隼人のグループは「葉山の友達」か「友達の友達」で構成されていることが分かります。同じグループ内でもバラつきがある。

不在の中心的な比企谷八幡が、葉山隼人という中心を消すことで、グループ内のバランスを一端解消させました。「選ぶ」「選ばれる」対象は、葉山隼人を中心に設計されていました。中心に「選ばれる」ための匿名的な悪意が宙吊りになることで「加害と被害」の彼らは等しく「選ばれる」ことが無くなり、それぞれを「選ぶしかない」。この非同期性に似た切断はメールそのものでしょう。葉山隼人にとっては距離が近くとも知らないことがある。また、彼らは「選ぶ側」ではなく、メールのように双方向的になるように「選ばれる」ことを待つしかない。

スクールカースト上位でも「空気」があり、相対化されていて「選べる」はずなのに「選べない」という序列的な構成が見えます。これは葉山隼人の存在、つまり中心の強さを感じさせ、そこに宿ってしまう無自覚な暴力性の問題を突き付けました。

整理しましょう。

比企谷八幡の解決策は揉める集団から葉山隼人を取り除くことで、つまり「選ぶ側」を消去することで「選ばれる側」をフェアにさせました。

一方で、葉山自身の存在感による問題点を突き付けています。悪意が葉山隼人に向けられていないにも関わらず、葉山隼人がある意味では誘発させた間接性のために引き受けざるを得ない状況へと移した結果と言えます。中心という無自覚な暴力性への責任と言い換えることも可能でしょう。

「持つ者」への妬みとして雪ノ下雪乃には、彼女に直接的に悪意が向いていましたが、「選ぶ側」としての葉山隼人に直接的には向かず、周辺に悪意を向けさせてしまった無自覚な間接的な働きがあったと言えます。

このような中心から離れることへの恐れは「みんな」や「青春」の磁場の強さを一層引き立てます。

『俺ガイル』2巻は2011年の作品でありますので、ケータイはメールでやり取りするのがメインとなっています。だからこそ、チェーンメールという匿名的悪意の拡散が題材に置かれ、「みんな」や「空気」、そして裏返しとしてのオン・オフの「距離」を明示化しました。

 

ケータイ社会論 (有斐閣選書)

ケータイ社会論 (有斐閣選書)

  • 発売日: 2012/03/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

メールは後で、あるいは選択的に見たり、返信したりすることができるなど非同期性が高い。一方で、着信音やボタン音を消してしまえば完全に無音になるため、声を発する通話が問題となるような公共空間においてもリアルタイムな、すなわち同期性の高いコミュニケーションも可能となる。

岡田朋之・松田美佐『ケータイ社会論』

 

ケータイメールの非同期性の高さと同期性の高さといった矛盾を両立させたコミュニケーションが、既存の人間関係の強化を目的とした「コミュニケーションのためのコミュニケーション」を成立させました。日常的なやり取りの連続性は、そこから外れたくないといった不安を「学校の外」でも煽る形として表れ、学校という舞台で「親密さ」として暴かれていきます。

 

 

第一は親密さの確保である。会話と同じような直接性に満ちたやりとりの親しさをいつでも維持しておきたい。その意味では、ケータイメールは「直接接続」のケータイ通話の延長上にある。他者との共同性の希求であるとも論じられよう。

第二は距離の確保であり、相手にあまり拘らないでよい間接性を可能にする。ここにおいて、通話との差異が「文字の文化」の特質をともなって現れる。すなわち「声」の共鳴の共同性を切断したところで成立する「文字」による読み書きの個体性である。

親密さと距離、直接性と間接性、共同性と個体性という、相反する欲求と異なる志向の均衡のうえにケータイメールのコミュニケーション空間が成立している。

佐藤健二『ケータイ化する日本語』

 

葉山隼人に対して間接的に問いを突き付けたチェーンメールは、メールの直接的な接続による親密さの希求が、間接的な中心への距離の発露として暴かれたグループ内の「友達の友達」の間接性と両立してしまう意味を投げかけました。これらの文脈はメールが持つ「空間」の引き写しのようでもあります。

依頼については葉山隼人を取り除くことで丸く収めるような形に持ち運びましたが、葉山という中心の功罪が一つ挙がりました。犯人を名指しする解決ではなくとも、結果的に犯人像は絞り込められた。

ここで明らかなのは、スクールカースト上位にポジショニングしている彼らも苦悩していることです。スクールカーストが低い比企谷八幡の「青春における生きづらさ」だけではなく、上位にいる彼らさえも「青春」や「みんな」に囚われている。

その事実が比企谷八幡の視点で語られたことが重要でしょう。この結果は二項対立の温存をある意味では強化させ、上位(葉山隼人)と下位(比企谷八幡)の目線を交らわせました。

ここで、不思議な存在として戸塚彩加が挙がります。

戸塚彩加スクールカーストからの自由さは作中でも随一と言えるでしょう。不在の中心である比企谷八幡の視点から、戸塚彩加の属している位置が正確には見えません。テニス部といった位置は1巻時点で読者と共有されていますが、クラス内における立ち位置は見え難い。クラスの女子から人気があることは、由比ヶ浜結衣が発言していたようにある程度目立つ存在として認知されている一方で、比企谷八幡に話しかけることは当然として、スクールカースト上位とも自然に交流がある。クラス内で可愛がられていることもあり、比企谷八幡と異なって相対的に目立つ存在であるにも関わらず、戸塚彩加比企谷八幡が目立っていると1巻で述べていました。

不在の中心として物語の主人公であり、語り手であるから読者的には自然なことでありますが、物語のキャラ、特に戸塚彩加のようなフラットさ、スクールカーストが決して下位ではなく厳密には不透明で、可視化し難い自由さを獲得しているキャラがそのように述べることは、逆説的には彼であるから可能とも言えます。可視化できないから自由な立ち位置を獲得しているというよりも、自由であるために捉え辛いのでしょう。そのフラットに眺めることが出来るような転倒した位置や中性的な容姿を含めた価値判断の「中立」や「留保」が、戸塚彩加というキャラクター性ではないでしょうか。

チェーンメールの件を終えた後、川崎家の問題に話が運びます。

高校2年になってから帰宅時間が遅く、素行不良化の懸念していることを受けて、川崎沙希のバイト先を調べる流れでメイドカフェに行く場面があります。

戸塚彩加の中性的な容姿を女性的に扱うライトノベル的展開があります。そして「男の娘」的消費に加えた「メイド」といった記号性へのアイロニーが見られます。ここで、戸塚彩加はそのような扱いについて怒りますが、「男同士の冗談」だと男性性を押し出すと気分を良くしたりと、中性的な存在はそれ自体がコンプレックスとなり得ることが描かれています。

一見よくある「男の娘+メイド」展開といった消費に読めますが、それらは彼を見ている側の都合のいい眼差しの暴力性であり、記号の押し付けに対する反発がアイロニーとなっています。

戸塚彩加は、中性的といったある種の中立よりも自分が思い描いている男性性に重きを置きたいが、実際はそのように見られないことによる不都合さがあります。中性的と呼ばれる男性の場合は、女性性に引っ張られることで成り立つものであります。それとは反対の男性性への憧れから「男らしさ」を素直に受け取る戸塚彩加の姿には、ある種の留保がある中性的なキャラに対する記号的理解へのカウンターが見て取れます。

川崎沙希のようなツンデレ少女が、実はメイドカフェで働いているかもしれないという記号も同様です。そのテンプレ的展開や理解といったバイアスが、正しく人を見ることが出来ない難しさを突き付けていると言えるでしょう。

川崎沙希の件は家族問題です。

当事者以外は何が出来るのかということ。他人の家について口を出せるのかということ。

家族外ではなく、家族内ならば話は成立する。

ある意味では「外」の限界性が描かれています。川崎家の輪郭を捉えながら、比企谷八幡と小町も同様に「家族」の要素が組み込まれています。家族は自分に一番近い他人と言えますが、家族ならではの距離感があり、それでもコミュニケーションの齟齬が生じることは当然ある。

川崎沙希の問題に入る前から、勉強と進路選択の重要性について記されていました。高校2年という位置付けを重層的に2巻で描き、葉山隼人たち、奉仕部、比企谷小町、川崎沙希といったように反復というよりも多様に展開されていました。

この2巻ではリア充側の「空気」の読み合いを推測的に描きながら、その中に入れないスクールカースト最底辺の比企谷八幡の視点が「外」であり、ある種の客観性が担保される。それによって作中の「解」になり易い結果がありました。

しかし同時に、川崎家の問題は「外」から出来ることの臨界点も提示したと言えます。

重層的かつ多様に描かれたのが2巻だと書きましたが、反復性は1巻同様にあります。職場見学希望調査票から始まり、2巻の終わり方に表れるような織り込まれた反復性から見える「まちがい」は、前進の困難さを提出した停滞と後退です。「変わらないこと」は「成長の奴隷」を退けることの美徳であり、裏返しにある潔癖さの発露です。

職場見学のグループ分けからチェーンメールが生まれました。

川崎沙希は高校2年から学費を貯める必要性があってバイトを始めました。

何かしらのキッカケがあって、行動や環境が変化する文脈が一連の展開に描かれていた。

しかし、比企谷八幡は徹底して受動的なコミットメントでした。

そこにはケータイのメールの機能を不完全だと述べたように、コミュニケーションの非同期的な不完全性が見えてきます。

由比ヶ浜結衣に「優しくされている」のも、事故がキッカケだと思っている。

事故の負い目に対して由比ヶ浜結衣の行動が変化しているだけであり、その結果、比企谷八幡の環境が変わっただけに過ぎないと。必要以上に「優しくされている」と思ってしまうコミュニケーションのズレは受け手の解釈次第です。

安直なラブコメに落とさない/落とせないのは「まちがい」たくなくとも「まちがって」しまうためです。

由比ヶ浜結衣の優しさを欺瞞や偽善といった解釈の受け取り方をすることで生じるズレ。比企谷八幡の主観によるズレであり、この物語の魅力である語り手の捻じれがそのまま素直に「まちがって」変換した結果と言えます。

彼のコンプレックスと経験則が、その「優しさ」を確信してしまうバイアスとなるのが「まちがう」根拠であり、しかし決定的に「まちがう」からこそ遠大なコミュニケーションにおけるディスコミュニケーションとしての『俺ガイル』が成立するための「必要悪」に映ってしまう。

ズレに気付かないのは由比ヶ浜結衣の優しさの本質が、比企谷八幡の主観と経験の範囲外であるからです。

つまり、解釈と経験が一致しないからこそ縺れが生じる。

 P258 真実は残酷だというなら、きっと嘘は優しいのだろう。

だから、優しさは嘘だ。

 

同様に「青春も嘘である」としたのが1巻でした。

「優しさ」は距離感が掴めない。「内」なのかどうかも判然としない。「外」から見ていることである種の客観性がありながらも、それは主観性の範囲内であったことが露呈するかのように。最後方に位置して自分が見ている距離感が、いつも優しくされることで距離感、遠近感を狂わす。

その結果、勘違いをして、ズレてしまう。

「青春」や「優しさ」は取り違えてしまうものであり、取り替えること自体は「変化」となる。アンチテーゼとしての「変わらないこと」が正当化できるための根拠であり、それを受け入れることは矛盾を生みます。

連続的に負けてきたからこそ諦め、希望を持つことをやめたのが比企谷八幡です。

その強固な守りこそが自分の同一性を保つ唯一の方法であると。

勘違いをしないように自衛することは、過去の経験によるものです。敗北に関しては百戦錬磨。深読みして、曖昧なニュアンスを嗅ぎ取って、自分にとって都合の良いように解釈することでしっぺ返しを食らってきた経験からの価値判断です。「まちがえない」ために慎重に留保を重ねていくリスクヘッジです。

嘘が嫌い。優しさは嘘であり、建前でしかない。

「空気」から外れることで、むしろ過敏に読み取ってしまうことで、諦めて自己防衛という穏やかなニヒリズムの裏返しとしての潔癖的マチズモが露わとなります。嘘や優しさを撥ね付けるための「正しさ」という強さを証明することが自分の「変わらなさ」なのでしょう。

『俺ガイル』の前進していると思いきや後退してしまうことが持つ作用は、可能世界を彷彿とさせます。「事故がなければ、ボッチではなかったかも」しれないが、それでもボッチだったかもしれない。可能性の度合いの話で、結果的にどちらに転ぶかは分かりません。可能世界的に分岐するかもしれなかったある種のゲーム性を排しようとしているのが『俺ガイル』の一回性の縮図たる所以です。「繰り返す」ことができないために「繰り返さないよう」にする一回性のリアリティです。

「繰り返さない」ために「まちがえない」ようにすることが「まちがい」を引き起こす。

もはや「正しさ」とは何でしょうか。

「まちがい」と対立する位置にあるものが「正しさ」のように思えますが、エコシステム的なものに取り込まれていると、「青春」の名の下で正当化すること自体が「まちがい」であり、それらを嘘や悪とする比企谷八幡のポジショニングは逆説的な正しさを帯びるといったアンチテーゼでした。

しかし、出発点の語りから、ある種の「まちがい」を重ねることで、それすらも動的に相対化されることになるために「正しさ」の価値や位置が変容して「まちがい」の範囲が肥大化してしまう。それによって二項対立自体が、区分けを移ろいながらも温存されるような相対的価値に対して「まちがえていない」つもりの「まちがった」価値判断=ズレは「正しさ」を彼岸として幻想的に浮き上がらせます。

ある意味「正しさ」を幻想的に立ち上げながら「まちがい」は物語として引き付けられていく。「まちがった」解釈を受け取ることさえも「まちがっているラブコメ」に回収されるように。「青春ラブコメ」というエコシステムによれば、物語的にはタイトル通り「まちがっている」が正しい「まちがい」をしていると言えます。

これまで見てきた重層的かつ反復的な「まちがい」があり、それを「正しさ」のもとで排除することは「まちがい」であり、「まちがい」の多様性として、それすらも「青春」的に映ってしまうアイロニーは読者だけが分かります。キャラたちは認識できません。彼らは「まちがえないように」するために「繰り返せない」一本線を歩いているのを読者が見つめることで、上記のような「まちがい」の構造を抽出することが可能と言えるでしょう。「まちがい」や記号やアイロニーは読者だけが分かる。この視点も一つの暴力性が働いていますが。

川崎沙希の嘘は人を傷つけないようにするための「建前」でした。そういう嘘もあります。でも、家族としては素直に頼って欲しい、としたのが川崎太志の「本音」でした。

由比ヶ浜結衣の優しさ=「本音」を「建前」と受け取り、それは嘘や欺瞞であると解釈するのが比企谷八幡の経験則でした。

つまり、優しさは嘘であると。

嘘、建前、本音による解釈の不一致は相手の持ち札が見えないために、推察することで生じます。「空気」や相手を見るしかない。相手から優しくされていると勘違いをすることは、都合よく受け取ってしまった過去によるもの。優しさと称して情けをかけることは嘘であり、受け手の解釈と経験に左右されることでズレは容易に引き起こされる。

事故の当事者であることが発覚したのは、非同期性の高いメールと同様にラグがありました。そして、メールのように「正しく受け取れるか」は分からない。

「嘘」と「メール」に表れるコミュニケーションのズレの反復は、主観性のもとで取り違えることで感情や意味が攪乱される。受け手が解釈を都合よく強化させます。プラスの意味でもマイナスの意味でも。「あちら」と「こちら」に分け、受け手の正しさを引き付けるバイアスがズレを作りますが、そのような「まちがい」は「まちがえたくないため」を起点としたものに他なりません。それを単に「愚か」であると断罪することは可能でしょうが、「なぜそのようなズレが起き」て「分かり合えない」のかが遥かに重要です。

ここまで執拗に抽出してきましたが、「まちがい」に「まちがい」を重ねることで、ある種の素直さを担保しています。それこそが裏返しの「正しさ」や強さへの一貫した幻想であり、「あちら側」へと嘘や悪を跳ねつけては、「正しさ」を引き付けようとする「こちら側」の論理自体が持つ「正しさ」という幻想は「まちがい」を重ねた相対的な産物と言えるでしょう。

ある種の「外」からの視点が「解」を持ち合わせていたはずなのに、「内」に入っていくことで主観的に非同期的にズレていき、関係性は攪乱されていく。

「正しく」受け取れなかった非同期性から、物語は始まりました。

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