おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』3巻 すれ違い・客観性・自意識の保守性

 

 

孤高こそ最強である。

これまでのようにボッチの正当化の反復が見られます。つながりは弱さを生むものであり、即ち孤高である自分は強いとする2巻と同様の反復です。

冒頭の比企谷小町との些細なやり取りに見られますが、数多のコミュニケーションが「ポイント制」のように数値化されていれば余計な気苦労もしないで済む、とあります。勘違いやすれ違いといった誤解、遠大なコミュニケーションによる齟齬も発生することはない数値化という目安は、コミュニケーションが状態と状況によって流動的に相対化される中において「ポイント」のみが絶対的な意味を与えるものとなるでしょう。

例えば、好きなのか嫌いなのかのグラデーション的判定も、プラス・マイナスの力学に引っ張られた形で露わになる分かりやすさが利点となります。つまり、コミュニケーションの根幹にある「分かり難い」「分かり合えなさ」が難点と言えます。「ポイント」や数字ならば客観的指標という目印として機能します。しかし、現実には「ポイント」は反映されていません。そのような判定が中々下せないのがコミュニケーションに潜む面倒臭さと言えるでしょう。

P19 リセットすることで俺は心の平穏を取り戻し、由比ヶ浜は負い目から解放され元のリア充ライフへと回帰する。選択肢として間違っちゃいないはずだ。いや、むしろ正しい。

 

上記には主観的な正しさの主張がなされています。比企谷八幡なりの理屈であり、由比ヶ浜結衣へのある意味では細やかな気配りでもあると言えるでしょう。

しかし、彼女の感情は考慮されていません。むしろ主観的な正しさといった、それを包摂した形で押し出してしまったと見る「空気を読んだ」結果とも言えます。ここで語られているのは、事故といった偶然の出来事に対して「必要以上」の意味を与えるものでなければ、ボッチ確定となった因果関係に「必要以上」の責任が伴うものでもない、とするある種の清算です。

比企谷八幡は、人生はリセットできないが、人間関係はリセットできると語ります。

人生という一回性だからこそ「まちがいたくない」誠実な姿勢は、地続きとしての正しさを追求することでリスクは緩和し、相対的な評価としてフラットに均す。清算的に。比企谷八幡の主観としての意味では「正しく始められなかった」者たちの物語が3巻と言えるでしょう。「まちがえないように」「まちがいたくないから」「せめて正しくありたい」とする真摯な態度が、状況と空回ったとしてもなお、外的評価にあたる人間関係はリセットできると信じているのは一回性の磁場において「せめてものの正しさ」を問うものです。比企谷八幡はその意味では都合のいい解釈をしてしまっている。双方向性、同期性が瞬間的に立ち上がって、相手がいてコミュニケーションは成立するものなのに、相手を欠落させた上での一方向的なズレの肥大化が一人称という理屈で記されています。一面的には「主観的な正しさ」という自縄自縛により、自分という殻は温存され、強化される。「まちがえていない」はずだとする正しさのもとで自意識は肥大化する。ここには、他者=由比ヶ浜結衣が居ません。この清算には自己完結の要素が強すぎる。もちろん、その引き金は比企谷八幡の経験から導かれたものが色濃く反映されています。「優しさは嘘」だとする彼の理屈の裏返しには、コミュニケーションにおける「ポイント制」への羨望と諦念があるためです。前述のとおり実際に「ポイント」はありません。「空気」を読み、コンテクストを合わせていく作業がコミュニケーションならば、比企谷八幡の自己完結的状況は、彼なりに「空気」を読んだ結果としてもコミュニケーションの断念へと接続されてしまっている。そうすることで相互に距離を取り、自然的にリセットされていく。人間関係は調整とも言われますが、調整をゼロベースに傾けることはリセットに直結していきます。

その意味では2巻で用いられたメールという非同期的なツールにも表れていますが、由比ヶ浜結衣雪ノ下雪乃に送信したメールというエクスキューズも一方向的でした。双方向性という幻想の立ち上げは、コンテクストと感情の行き違いにより、ディスコミュニケーションへと転換されます。 

優しさは同情であり、ただの義務である。

「ポイント」のような絶対的な意味ではなく、状況と状態により相対的な意味合いを持ちます。その際には「空気とコンテクスト」を読まなければなりません。ある意味では「優しさは嘘」という一面的なズレも正しい主張となります。

主観的には由比ヶ浜結衣に義務的に「嘘」を強いてしまっている、とする比企谷八幡の理屈は、偶然の出来事に対する因果と「加害・被害」の構図に取り込んでいると考えています。このような「嘘」は、ある種の虚構的な優しさと呼べるものであり、義務や悪は正しくないとする反復的・潔癖的な撥ね付けに他なりません。それこそが主観的には正しいとしている。分かり難さの要因となる「優しさ=嘘」の構図は経験的なものです。

「空気とコンテクスト」が流動的な意味合いを孕んでいることは「ポイント」と相反するものであり、印が見えないからこそ「分からない」。まさに「優しさ=嘘」のように感情と切り離された行為が義務的に先行することもあります。それを「まちがい」だとするからこそ、コミュニケーションの取れる範囲が自己完結的に矮小化してディスコミュニケーションとなります。比企谷八幡の状況がそうでしょう。

そして「ポイント」とは異なり、「空気とコンテクスト」は神秘化することで、コミュニケーション環境における自分の許容範囲と肥大化する自意識は反比例していきます。「空気とコンテクスト」による相対的な正しさは「まちがい」の領域審査さえもコンテクスト化していきますが、ある種の「自意識の審級」というラインも流動的であるにも関わらず一方的に肥大化していくことで、他者性を欠落させたまま絶対的な意味を持っていると錯覚してしまいます。

ここでは「由比ヶ浜結衣の優しさを正しく受け取れない比企谷八幡」といったすれ違いが描かれています。彼女にとってはそう難しいものではないのに、彼には経験による「正しき」認知的歪みがコミュニケーションの切断を生みました。重要なのは「まちがいたくない」からこそ「空気を読んだ」ことです。それにも関わらず「まちがえていないはず」なのにズレてしまう状況があります。由比ヶ浜結衣からすれば当然のコミュニケーションとしての行動が、比企谷八幡の主観的には嘘や義務や同情として解釈されてしまう。主観的に一方向的に語られている状況による「分からなさ」に起因した縺れが「分かり合えなさ」へと繋がっています。ここでは由比ヶ浜結衣の不在のまま、比企谷八幡が都合のいいように「空気とコンテクスト」を読んだことになっています。結果的にはプラスにもマイナスにも主観的に取り込んでしまうからこそ、コミュニケーションには他者がいるはずなのに欠落してしまい、「空気とコンテクスト」による一方向的な解釈でもって潔癖性は強化されています。比企谷八幡の一方的なズレが漸近的に相互の距離を開いてしまうように。

 

 

ライトノベルでは、コミュ障が主人公となる「残念系ラブコメ」ジャンルもそうであり、スクールカーストを描いている。「残念系」とされる側面(残念特性)を隠さず、「見せかけの友達として馴れ合うよりも孤独で気ままな方がいい」とする指向性をもつ(あるいは、自分に群がる美しい女子が「残念」系という意味でも使用)が、「隣人部」「奉仕部」のような特殊な場を通じて、やはりハーレム状態の夢は描かれている。

(…)

コミュニケーションはこのように、相互性をもち、モニタリングによって相互認識が行われており、また相手に好意的に振る舞わない場合は、嫌っていると直接明言しなくてもそのように察するようにコミュニケーションを円滑にする構造が組織されているため、コミュニケーションのリスクを回避するための、逆にコミュニケーションの誤解がたくさん生じる。コミュニケーションを守るコミュニケーション様式がコミュニケーションを複雑にさせている要素は否めなく、それゆえコミュニケーションというものの負荷も原理的に高くなる。

樫村愛子『コミュニケーション社会における、「コミュ障」文化という居場所』

 

「残念」については、さやわかの『一〇年代文化論』を参照しながら1巻の記事で記しましたが、「コミュニケーションの誤解」に対するリスクヘッジが「コミュニケーション自体の負荷を高める」状態は、比企谷八幡の経験と理屈からみても明らかでしょう。ある種の素直な捻じれに起因しています。

futbolman.hatenablog.com

由比ヶ浜結衣とのコミュニケーションのズレには、「異性間」といった期待してしまうゆえに生じる勘違いの要素が含まれています。齟齬のニュアンスを突き付けるものとして、戸塚彩加とゲームセンターに行くシーンがあります。男同士ならば勘違いすることもない。異性であるからこそ変な期待を持ってしまう。

ゲームセンターで戸塚彩加材木座義輝と遊ぶ場面では、友達の定義について触れられている部分があります。材木座義輝の場合、ゲーセン仲間は友達なのかどうかといった具合に。それに対して、比企谷八幡は友達の定義よりも機能で語るとします。定義論で出発すると困難が付き纏うためです。友達という定義の曖昧さは「分かり難さ」そのものであり、捉え辛いものです。実際は機能よりも属性や状態に近いと考えられますが、ここでは男友達同士ならば勘違いすることもなく関係していられるけれども、由比ヶ浜結衣とはどうなのだろうかという問いへ向かう構成となっています。

比企谷八幡由比ヶ浜結衣の認識のズレ、不一致性はコミュニケーション不全によるものです。それは先に引用した樫村の論考にあるように、モニタリングによる相互認識状態が望ましいにも関わらず、他者性が抜け落ちた一方向的になってしまっていることが「コミュニケーションを守るためのコミュニケーションに対する負荷」が生じてしまい、そこからコミュニケーションを回避するという「空気とコンテクスト」に合わせなければならない素直な捻じれがあるためです。

比企谷八幡の主観のみがあり、由比ヶ浜結衣の情報(感情)は断片的に記述されています。その断片ゆえの見え難さはモニタリングの結果、「空気とコンテクスト」として曖昧に表れます。

さらに事実として事故の件があります。事故があり、入学早々ボッチとなった因果に対する「意味と責任」を必要以上に推察した結果と考えているのが比企谷八幡であり、むしろ由比ヶ浜結衣の優しさを適切ではないと判定します。ある意味ではここに漂う「空気とコンテクスト」を過大評価しているために取り違えてしまっているとも言えます。このような「受け取れなさ」は、比企谷八幡の経験則によって「まちがった」解釈が強化されています。

リセットしたつもりでもリセットが出来ていない。一回性の人生において、ゲームのように気軽にリセットボタンを押すことは出来ません。確かに一面的にはつながりの弱さもありますが、他方では人と人とのつながりは容易に切れないものもある。比企谷八幡にはリセットの経験しかなく、つながりが温存されてきた経験が無かっただけだと言えます。だからこそ幾度となく反復的に孤高であることを正当化し、「残念」な語り手としての矜持を持ちながら「生温い馴れ合いよりも孤独によるタフさ」を前景化させようと見せている。持っていなかった手札以外にも手札はあります。『俺ガイル』は、その意味では「持たぬ者」が「まちがえない」ようにするために手札を駆使しても「まちがってしまう」循環に囚われるジレンマを主観的に描いたと言えるでしょう。

このすれ違いには、由比ヶ浜結衣が切断された状態が先にあり、周り(戸塚彩加材木座義輝、雪ノ下雪乃)と関係していくことで由比ヶ浜結衣へのコンテクストを合わせに行く状況が作られていきます。ズレの原因は由比ヶ浜結衣の優しさを「同情と義務という嘘」としたことであり、由比ヶ浜結衣の真意は正確には分からないのに、経験的に対応した結果が齟齬を生じさせました。このグロテスクな非同期は、一方向的な好意をマイナスに受け取り損ねることで決定的にすれ違うといった主観の歪みがあります。

本明寛の『誤解』には「コトバのやりとりで気を付けたいところ」として以下のようにあります。

 

気持ちがコトバにあらわれている時には、主観的な説明である。事実と違った表現になりやすい

 

住む世界とコトバの世界は必ずしも一致しない。住む世界での事実がコトバの世界では美化され、省略されることが多い

 

比企谷八幡の主観的経験的な説明が、由比ヶ浜結衣の優しさが意味する事実とは異なっていたことが「誤解」を生んだと言えます。

また「住む世界での事実」は事故から派生した因果が該当します。本明寛の言説によれば「コトバの世界では美化され、省略されてしまう」ために誤解してしまう。これは由比ヶ浜結衣の優しさを比企谷八幡からの視点でいえば「必要以上」に感じ、それゆえに適切ではないから「不必要」であるとした「美化」が前提にあります。この「美化」は期待や勘違いに近いでしょう。その「必要以上」な「美化」を正しくないとした比企谷八幡のロジック(コトバの世界)は、ある意味では正しく「まちがって」いました。由比ヶ浜結衣の「住む世界での事実」から素直に引き出されている真意が「美化」ではなく、事実として、さらに「省力」されて零れ落ちています。主観的な語り口に依存した「他者性」の欠落から、「省略」された捻じれとして「誤解」が生まれています。

このすれ違い、誤解は更なるコンテクストを重ねていきます。

雪ノ下雪乃と一緒にいるところに由比ヶ浜結衣と偶然出会うシーンがそうです。

このような「偶然性」は3巻で重要な要素だと言えます。

しかし、物語に「偶然」なんてあるのでしょうか。

もちろん、作中の「偶然」は作者の手によって「必然」として描かれているわけですが、キャラクターたちはその「必然」を認知することは出来ません。ですから、戸塚彩加材木座義輝とゲームセンターに行く流れも「偶然」とするならば、「偶然性」という外的要因によることで関係性や内省が攪乱されていくための「装置=必然」と言えます。比企谷八幡には「他者の不在」が起点にあるために「偶然性」から接続されていく「必然」がある。

そこから「偶然に偶然」が重なった結果、関係性は混乱し、あらぬ誤解が生じていきます。そもそも由比ヶ浜結衣比企谷八幡のすれ違いも、事故という「偶然」が鍵になっていました。

物語レベルとしては重要な「偶然性」であるにしても、キャラクターたちは物語=人生という一回性の磁場にあって、そのパッケージ化された側から抜け出すことはできません。であるから一回性という中で「まちがえない」ように「まちがい」を極力排し、「偶然性」の中から確実なものを手にするために持っているものを温存するという自意識の保守化が働くと言えるでしょう。 

 

P94 誤解は誤解。真実ではない。ならそれを俺自身が知っていればいい。誰に何を思われても構わない。……いつも誤解を解こうとすればするほど悪い方向に進むしな。もう諦めた。

 

最小限に留めるためのダメージコントロールは「空気」を読むに通じます。樫村の論考にあったように「空気」に結果的にコミットするような働きがあると言えますし、その行為がディスコミュニケーションとして「原理的に負荷」を高めてしまう。他者との関係性において、傷つかないためにアイロニカルに経験則を持ち出し、負けないための手札を切る。

自意識過剰を抑制させて傷つかないためのラインを見極めることは、諦観と静観という「空気」を読んだ上で変に動かない方がリスクヘッジに効く判断に繋がります。

自分のことは自分の範囲内で収まるように分かっていればいい。「他者の不在と誤解」を解く努力の放棄は諦めてきた経験による「適切な判断」となり得る。

雪ノ下雪乃比企谷八幡が一緒に居るところを由比ヶ浜結衣と会ったシーンも、事故の件も、「偶然に偶然」が重なるようにすれ違いのコンテクストが二重化するようになっています。誤解を解きほぐすコミュニケーションによる双方向性が無ければ(それを断念すると「空気」を読みながらディスコミュニケーションに傾く)、それぞれの個人レベルの理解からはみ出ません。「持たない者」が領域範囲外へと手を伸ばさないように、自分の範囲内だけで充足している様は諦念による自己完結した「残念」なボッチの処世術であり、ディスコミュニケーションの前景化です。

事実と結果から滲み出る淡いや「美化と省略」されることについて、それぞれの理解で済ませようとするディスコミュニケーションの様子から、モニタリングした共通認識を作る回路が比企谷八幡にはないことが描かれています。理解や認識さえも個々人の曖昧なバラバラさに収斂することをよしとする「諦め」が経験的に先行してしまっているからです。

それは「期待」してしまうことによる「美化と省略」の歪みが起因しているならば、雪ノ下雪乃と出かけるシーンでの比企谷八幡が抱く安堵感は「由比ヶ浜結衣の優しさ」とは対照的に映ります。

比企谷八幡は、雪ノ下雪乃が「嘘を吐かない」ことを信用しています。偏に「嘘が嫌い」である潔癖性によるものであり、真実=「美化と省略」から離れているためです。期待しないし、されないことで誤解が生まれようがない状況と言えます。

つまり、何かに期待しているとすれ違う可能性がある。期待による「美化と省略」が都合の良いように捉えてしまうが、諦念によって都合の悪い方向に流れていくことでも結果的に「まちがえて」しまう。優しさが嘘や同情だと判定しながら、期待してしまうバイアスがかかることで「まちがえる」からこそ期待せずに、諦めることで都合の良い方向にいかないことで「まちがえない」ようにしても、由比ヶ浜結衣とすれ違っている状況が生まれてしまう。「必要以上」にネガティブに捉えても、真意は汲み取れない。それも真実ではなく、その理解に由比ヶ浜結衣が存在しないことに他なりません。

自分完結のための自意識でしかない状況において、如何にコミュニケーションのリスクヘッジをしてもすれ違ってしまう。自分本位の「分かり難さ」を起点に他者との共通認識を作るしかないのに、相手を見ていないのは諦めによる切断が起点にあるからと言えます。

ところで3巻には雪ノ下陽乃が登場します。

比企谷八幡と小町の兄妹の距離感に対して思うところのあった雪ノ下雪乃が描かれてきましたが、そのイメージを補強するように雪ノ下陽乃の外面のよさが徹底されています。その仮面を看破した比企谷八幡の理屈は、理想的すぎるのは嘘臭いとする、ボッチは期待しない現実主義者だから見抜けるものでした。裏返せば理想に対する諦め、断念から現実を眺めるほかないとも言えます。

偏屈を重ねることで、理屈という筋を通すことで見抜ける雪ノ下陽乃の違和感について、経験と理屈による「正しさ」があります。

しかし比企谷八幡たちが常に「正しい」わけでもありません。むしろ主観的に「正しさ」を選択したつもりがズレて「まちがう」。その齟齬さえも流動的であり、彼岸としての「正しさ」や絶対性を理想という価値でもって幻想化させてしまう。

この登場で大きな意味を持つのは、雪ノ下雪乃が姉に屈する光景が描かれているところでしょう。少なくとも絶対的と思われた雪ノ下雪乃の立ち位置が姉の存在感によって流動化・ 相対化されてしまう現実は、ある意味では「現実的=雪ノ下雪乃」のパラレルに「虚構的=雪ノ下陽乃」という理想を位置付けることで、「嘘を吐かない雪ノ下雪乃」と「嘘臭すぎる雪ノ下陽乃」の対比から「現実と理想」の存在感を際立たせました。その違和感も含めた存在感を「現実側」としての比企谷八幡の語りから引き寄せる構図と言えます。

この二項対立の意味は、もちろん「理想と現実」は違うことを現実的に突き付けることです。現実を知れば知るほどに理想の輪郭は嘘臭さを増す。雪ノ下陽乃のように。彼女を理想形とする、彼女の仮面を作ったのは現実側の「理想や欲望」に他ならないとしても。理想形でしかなく、現実感が希薄ともいえる存在として当初は描かれています。これも「理想」というイメージに過ぎず、自覚的に記号的に回収されながらも、裏側に潜んでいる雪ノ下陽乃の違和感にある「現実性」もまた現実側から引き寄せられた結果と言えるでしょう。

さて、話を戻します。

すれ違いのコンテクストが二重化してしまった雪ノ下雪乃由比ヶ浜結衣

曖昧な言葉と態度によって、意味が噛み合わないまま会話が進行してしまっているのは現実(住む世界)とコトバの世界のニュアンスの不一致による誤解そのものです。

この二重化は由比ヶ浜結衣を番いとして「由比ヶ浜結衣比企谷八幡」「由比ヶ浜結衣雪ノ下雪乃」といったように、すれ違いのコンテクストが多重化していることを意味します。

前者は由比ヶ浜結衣の優しさを「同情・義務・嘘」であるという捻れた現実主義的主張による解釈が起因しています。

後者は由比ヶ浜結衣への感謝を述べたい雪ノ下雪乃ですが、由比ヶ浜結衣雪ノ下雪乃比企谷八幡が付き合い始めたという思い違いをしていることで「好意と行為」のズレが生じています。それぞれの解釈によって、共通認識としての言葉と態度が噛み合わない誤解のコンテクストがあり、「由比ヶ浜結衣雪ノ下雪乃」の部分では比企谷八幡視点といったある種の「外的」から眺めることで客観性が示されています。

しかし「由比ヶ浜結衣比企谷八幡」のコンテクストでは、その「外」が担保されていません。語り手自身が「内面化」して没入しているので、すれ違いのコンテクストに取り込まれています。自分のことは見えているようで見えないものです。相手を見て、他者が自分を映す鏡であるような間主観性をいかに構築するかが重要ですが、後者では比企谷八幡がそのニュアンスを掴めますが、前者のコンテクストには間主観性が欠落してしまっている。比企谷八幡の主観だけでは、プラスにもマイナスにも自身の都合や解釈から逃れられない。感情と言葉と態度のコンテクストによって左右されるものですが、由比ヶ浜結衣の不在のままの主観的理解が押し出されている状況でした。

他方で、比企谷八幡は後者の「由比ヶ浜結衣雪ノ下雪乃」のすれ違いについて、由比ヶ浜結衣の勘違いには心当たりがあり、彼自身は気付いていたが、自分からそれを正すのは自意識過剰のようで抑制していたことが記されています。そこまで見越しているところが既に自意識過剰のようにも思えてしまいますが、「外」的である比企谷八幡が「間」に入らないことで捻じれたままになっているとも言えます。

そんな折に材木座義輝の乱入によって空気が弛緩する奉仕部。非日常的な存在により、日常の緊張状態にあった空気が緩和され、良くも悪くも「外の空気」が入ってきたことになります。材木座義輝がその意図があったかどうかは関係ありません。「偶然性」が重要です。彼自身が直接コミットしなくても「空気」が入れ替われば別種のコンテクストが立ち上がらざるを得ない。奉仕部内の二重化したすれ違いのコンテクストとは別に奉仕部に依頼という「外のコンテクスト」が接続されることで、パラレルに温存されながらも「空気」を再構築することができる構造となっています。

材木座義輝の依頼から始まった遊戯部との大貧民対決のように、持ち札を推察することは「空気を読む」ことに通じています。ノリを合わせることは、集団に属さず、そのような空気を敬遠している集団心理から程遠い比企谷八幡だからこそ、ある種のマンガ・アニメ的なサービスの拒絶をするシーンがあります。このコンテクストは、遊戯部と材木座義輝といった男性的な欲望とメタレベルにある読者というコンテクストとのある種の結託だと言えますが、「空気を読まない」ディスコミュニケーションで対抗することで「コミュニケーションを守る」効果が働いています。なにも「空気を読む」だけではありません。「読まない」ことさえもある種のコミュニケーションとなり得る。沈黙や拒絶が作用として。

その意味では、大貧民における手札というのはコミュニケーションの比喩だと言えます。 カードが共通認識となることで、相互の意思のズレを埋めていく心理的作業。共通のゲーム・ルールがあり、手札があり、その埋め合わせをしていくことはディスコミュニケーション的な文脈が積極的に転倒したコミュニケーションの作用そのものではないでしょうか。

ここで描かれている大貧民は、コミュニケーションを加速させるだけではなく、現代社会を反映させたかのような弱肉強食の比喩としても用いられています。革命やスペードの3は、弱者が逆転する構図そのものであり、「持たず、否定されるもの」たちの反逆の狼煙としてカタルシス的効果を発揮していますが、ここでも「理想と現実」の対比があります。この文脈はさきの雪ノ下陽乃もそうでしたが、「理想」の否定として「嘘臭く偽物」であるからこそ、現実的であろうとする現実への回帰といった引き寄せがある。「理想」を否定して、徹底的に現実的たろうとするために理論武装して「現実側」を強化している遊戯部からすれば、材木座義輝の「理想」は酷く嘘臭いものに映る。「現実」の前景化による否定は、根拠なき「理想」自体を相対化させるように材木座義輝の位置も弱者的に描かれています。

その弱者的立ち位置であるからこそ、大貧民の比喩がカタルシスとして表れます。革命とスペードの3が「希望」にもなり得る状況は、「現実」の中で否定されてしまう「理想」が唯一の「希望」になるものとして比喩的だったと言えるでしょう。

そして比企谷八幡が遊戯部に語り掛けた「理想と現実」のバランスは、否定も諦めもまだ判断を下さなくてもいい「モラトリアム=先送り」の肯定でした。価値判断の保留という現実的提案が、「理想と現実」を宙吊りにすることで緊張状態を緩和させるように。

材木座義輝と遊戯部の対立・すれ違いに対して、比企谷八幡が「間」に入ることで、つまり「外」的に機能するからこそコミュニケーションの間主観性が構築され、関係性が攪乱されるケースでした。

奉仕部内では反映されていない、出来ていないことが先にこの場面で行われたとも言えます。転じて奉仕部のコミュニケーション問題にシーンは流れます。

P239 始め方が間違って 本物と認めることはできない

始め方の問題としてのすれ違い、誤解を主張する比企谷八幡。始め方が「まちがっていた」とします。

しかし、始め方に「まちがい」なんてあるのでしょうか。この後に直接的に応答した文章ではありませんが、コンテクスト的には合致しているように読めてしまう由比ヶ浜結衣が遊戯部たちに向けた言葉があります。

 

P214「始め方が正しくなくても、中途半端でも、でも嘘でも偽物でもなくて……、好きって気持ちに間違いなんてない……と、思う、けど」

 

始め方の問題ではなく、本物と認めることができなくても、それを思いやる気持ちには「まちがい」なんてないとする彼女の言葉は、結果的に始め方を起点とするよりも以前の条件である「想い」に差し替えるものだと言えるでしょう。ここでも前提の解釈のズレがあります。

関係性をリセット、差し引きゼロにして終えることが比企谷八幡の経験則でした。ある種の純粋さがイコール潔癖として表れているわけですが、「始め方の正しさ」という前提をコンテクストがすれ違ったままどのように調整するか、という話にスライドしていきます。そこで重要なのは遊戯部と材木座義輝の件にもありましたが、「由比ヶ浜結衣比企谷八幡」の二者関係から「外的」存在が「間」に入る働きでした。 

そこで雪ノ下雪乃が「外的」として機能することで、「内」にいる「由比ヶ浜結衣比企谷八幡」の二者間を客観視する「外」的視点を提出できます。この機能性は遊戯部と材木座義輝の件のときには比企谷八幡たちが担っていたものと同質と言えます。問題となっている事物に対する「空気」の可視化によってフラットな提示ができる効果は、この場合では雪ノ下雪乃といった第三者の存在によって担保されます。 

 

私たちが好んで(?)行いがちな、どちらの根拠のほうがより経験的事実に合致しているかという確認困難なレベルの言い争いは、ややもすれば容易に水掛け論、泥試合に陥る傾向があります。

 

根拠の内容がより具体性をもっていること

再現性があること

どんな対象について、どのように観察したのか

が明示できることを備える必要性がある。

福澤一吉『わかりあう対話10のルール』

 

 

比企谷八幡の経験的事実という主観には、再現性があるかどうかは曖昧と言えます。なぜなら、現に由比ヶ浜結衣とのすれ違いは経験的事実から導かれた錯覚の類いであり、それ故に彼の固有性やアイデンティティとなっている「正しくまちがっている」ジレンマでした。

 

人は、それぞれ自分の主張に好都合な論拠を背景に経験的事実を集めてきます。

どちらのほうがより根拠が確立しているかどうかを考慮するための手続きは、第三者からみても具体性が分かるように明示されていなければならない。

 

福澤一吉が記しているように、他者の不在のまま構築された比企谷八幡の経験則は、ある意味では「空気とコンテクストを読んだ」上で自身と相手を慮るように「正しい」と思っていることが「まちがい」に転じてしまうものでした。その結果「分かり合えない」かのようにすれ違ってしまった。

そして「第三者からみても具体性が分かるようにしなければならない」という点では、「外的」に働く雪ノ下雪乃だからこそ論点を差し替えることが出来たと言えるでしょう。

雪ノ下雪乃が述べた論点は、「始め方の問題」ならばその前提条件から見つめ直すことでした。比企谷八幡由比ヶ浜結衣はそれぞれ等しく事故の「被害者」という共通点があり、因果の原因は「加害者」に向けられるべきという提示でした。だからこそ、由比ヶ浜結衣比企谷八幡は「被害」のもとでフラットに「やり直し始める」ことができる。そういう共通認識を与えることが出来るのは、『俺ガイル』がこれまで一貫して作中の「外的」な存在による捻じれたロジックが担保されてきた文脈があるためです。

経験的事実に再現性があるかどうか、具体性があるかどうか、さらにきちんと論理が確立しているかどうかを第三者による視点がなければ、それぞれの経験的事実の主張のみが先行して水掛け論になってしまうといった吉澤の言説を借りると、まさにこのシーンの三人の立ち位置が証明していると言えます。

なぜ、このように絡み合ってしまったのでしょうか。

比企谷八幡の思考を整理します。

事故は「偶然的」な産物であり、由比ヶ浜結衣であることを特定して事故に関わったものではない、とする匿名的行為に尽きるとしています。そこに特別性はなく、由比ヶ浜結衣がそのことに特別性を見出すのは「まちがっている」。そして「特別でもない普通のこと」であれば、「必要以上」に恩恵を授かっていても「正当」でなく、「本物」ではないとする「始め方の問題」に終始している、というロジックが成立しています。

そのために由比ヶ浜結衣の優しさや気配りが「必要以上」な同情のように映ってしまう。比企谷八幡の行為は「偶然的な匿名的」であったのにも関わらず、由比ヶ浜結衣の行為は「必然的に特定的」な意味を持ってしまうからです。これらの捻じれは、比企谷八幡の解釈上は特定的な義務行為に見えてしまうことも要因でしょう。

だからこそ「始め方の問題」であり、特別な意味もなく、そのように偽装するのは「本物」ではないとする潔癖的拒絶が根底にあります。

一方で由比ヶ浜結衣にとっては、匿名的とか特定的だとかよりも、もっとシンプルなことであるという齟齬が起きています。

しかし、事故=「偶然」に「必要以上」の意味を持たせたくないのは「期待して誤解して」しまうためであり、その結果としてアイロニカルな経験的事実が成立してきたとも言えます。比企谷八幡にとっては、このような経路を辿らなければロジックが構築できない。「勘違い」をしてしまうからです。敗北し続けてきた経験を蔑ろにしないためにも。この主観性のジレンマを通すと、単純な好意(由比ヶ浜結衣)と「空気を読んだ上での」複雑な独り善がりな思考(比企谷八幡)となります。

だからこそ「始め方がまちがっていた」とする経験的事実に対して、雪ノ下雪乃の「正しく始め直せばいい」という提案は関係性の上書きと言えるでしょう。すれ違いの原因は「加害・被害」にあると雪ノ下雪乃が提出することで、共通的な被害者としての「私たち」を建前的に作ることができます。その上で「始まりの問題にあったすれ違い」を終わらせることができ、それ故に等しく「被害」のもとで始め直すことができるロジックでした。

「偶然」に「必要以上」の意味がないとする比企谷八幡の主張に対して、別の角度、つまり「外的」に働く視点から異なった「偶然」の意味(被害という共通項で包括)を作ることで、「すれ違っていた=分かり合えていない」ところから如何に共通認識を立ち上げるか。その働きは二者関係から外れたところに位置する者の特権ですが、実際は被害者としての「私たち」という共通認識から、恰も「加害者」を仮想敵として纏める捻じれた意味も必要的に問わなければならなかったでしょう。

確認しておきたいのは、すれ違いにおける対話では、由比ヶ浜結衣のように厳密に言語化できない場合があります。

そして、比企谷八幡も自身のロジックをきちんと相手に分かるように伝えているとも言えません。「始め方の問題」にあるように初めから微妙にコンテクストがズレたまま、会話が進行してしまことで裂け目が拡大化します。言語化できない場合、どのように動機や意味を作り、コンテクストを同期させていくことが出来るか。このシーンでは雪ノ下雪乃から与えられた意味、つまり共通認識や主観性の問題と繋がっています。比企谷八幡自身が導いたのではなく、他者からロジックが与えられていることに意味があります。

3巻では比企谷小町戸塚彩加材木座義輝、雪ノ下雪乃といった「外的」に刺激されることで自分自身を確認していく構造でした。比企谷八幡には初めから理論武装したエクスキューズありきの意識設定ですが、自分自身では分からない「不透明さ」が異なった視点から意味が攪乱されていきます。

比企谷小町戸塚彩加から「最近変だよね?」と言われるまで自覚的ではなかった比企谷八幡のように。自分では自分のことは分かっていない。主観性のジレンマにより、自分のことは自分が一番分かっているという思い込みを信じたいことは、アイデンティティの補強によるカウンターとしてポジショニングしてきた側の理屈に直結してしまっているからです。

誤解や勘違いは期待してしまっているから生じるために「悩むくらいなら諦める」という断念は、材木座義輝のような希望や願望とは対照的な現実としての判断でしかありません。地続きとしてのリアリティがあり、「まちがい」たくないから諦める他ない。その一貫性は強化されていく志向性であり、潔癖的マチズモと露わになります。その固定化とは反対に、周りや人間関係は流動的です。リセット可能とする固定化した比企谷八幡の経験則は、一回性であるから人生自体はリセットできないが、せめて「まちがえない」ようにするために慎重を期すればするほどにすれ違ってしまうアンビバレントな落とし穴でした。

他者を見ないまま経験的かつ主観的に処理しようとする様は、ある種の傲慢とも呼べるでしょう。「まちがい」たくないとしても。それ故に持っているものはなるべく温存したい。その心情は一回性の引力により、同一性が担保されながら反復を繰り返し、保守性を主観的に経験的に強化してしまう。

これまでの自虐ネタというアイロニーは経験則から導かれています。負けを知り、勝つことはなくても、同時に負けることもない手札を切る経験が蓄積されてきた捻じれからのある種の素直さだと言えます。いつかの自分を引き合いに「ネタ」にすることで専守防衛する。

比企谷八幡由比ヶ浜結衣」のすれ違いは「まちがい」ながらも、ラブコメとしては王道のような展開を見せています。

由比ヶ浜結衣による新しい好意を受け入れることができないのは、比企谷八幡の主観的かつ経験的な遺産へのアイロニカルな信頼に他なりません。その敗北の経験は、異なる他者を受容できません。ある種のテンプレめいた経験を参照することで、温存された固定観念を再生産し、先行的にリスクマネジメントを図ることで別のコンテクストが立ちあがってしまう。

3巻の比企谷八幡由比ヶ浜結衣の一周したディスコミュニケーションによる距離と齟齬の表れは「まちがい」であるが、同時に「正しさ」も孕んでいます。なぜなら、主観的な応答を経た共同的な視点は、コミュニケーションの「移動」が形成されることで適うものです。ディスコミュニケーションによってコミュニケーションが要請される、というのはその意味です。この文脈に照らし合わせれば「まちがい」が「正しさ」を作り、また「まちがう」ことで次の段階を踏める、という循環的ながらも意味や関係性は他者に攪乱されるように「移動」していきます。

例えば、ジル・ドゥルーズの「領土」という概念には、フォン・ユクスキュルの「環世界」に少なからず依拠しています。ユクスキュルの「環世界」とは、それぞれの生き物に宿る固有の世界そのものを意味します。生物の身体それぞれに固有のスタイルがあり、異なる世界、つまり「環世界」が認識されている状態は固有性の確認と言えます。それぞれの「環世界」という異なった世界を「移動」する。この運動性の場所として「領土」がある。

つまり未知と既知を行き交う運動を経ることで「領土」を脱け出し、再定義化する多様性こそがコミュニケーションの様式に接近していると言っていいでしょう。

「環世界」的に、「領土」的に、固有と流動の「移動」を繰り返すディスコミュニケーションとコミュニケーションから見出される「分かり合えなさ」を互いに受け止めることが第一歩です。そこからつなぎとめるための受け容れを模索することでしか、完全に相互に「分かり合えない私たち」というある種の同一性の切断とそれさえもつなぐための同期的な在り方としての差異は生まれません。

同一性と差異は「分かり合えなさ」を起点としています。漸近的にズレてしまう要素を抽出していくことで、(非)同期的な差異が提出されます。

もちろん、同一性だけを掬い取ることも「大きな共通認識」として働きます。作中では「被害者」の名の下で共通的であった比企谷八幡由比ヶ浜結衣のように。差異から同一性を構築していった雪ノ下雪乃のように。

しかし根底には「大きな共通認識」でだけでは不足してしまいます。根底にある「分かり合えない」というズレが差異として乱立します。だからこそ、その差異という共通認識さえも「分かり合えなさ」に繋げることで別の共通認識を立ち上げることは可能でしょう。

差異は、一回性ゆえの現実主義的にならざるを得ないある種の保守性へのアンチテーゼとして機能しています。

比企谷八幡でいえば、他者性の欠落という「領土」から「移動」を切断した経験的な自意識の肥大化と潔癖性でした。この「環世界」は同一性を温存するものでしかなりません。そこに由比ヶ浜結衣の態度と「領土」、雪ノ下雪乃が与えたロジック(同一性と差異)によって「領土」は脱領土化するように「移動」せざるを得なかった。経験的に対応できない未知との接触として。

これらの自意識の運動は一面的には同一性を強化しながら、他方では差異を取り出すようにして他者性と接続されていきます。「分かり合えない」「すれ違ってしまう」ことを通じた上で、与えられた共通認識としての別のコンテクストに寄りかかるように。「移動」による「領土化」を経ることで、固有の保守的な自意識への批判に繋がっていきます。

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