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しまいには世の中が真っ赤になった。

渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』4巻 漱石『こころ』から鋳型に入れたような性悪説と性善説への留保

夏目漱石の『こころ』に関する比企谷八幡の読書感想文が4巻では象徴的な意味を持っています。

彼にとって『こころ』は人間不信の物語であり、ハッピーエンドを否定していると読み解けている。ただそこには人が個人として抱かざるを得ない孤独があり、それを受け入れるしかない。その孤独の在り方を夏目漱石は「淋しさ」と記しました。もはやこの孤独、「淋しさ」や近代的自我としての個人の確立は不自然なものではなく、既にデフォルトになったと比企谷八幡は述べています。それぞれが事情として持ち合わせており、それでもなお理解されない「分かり合えなさ」を踏まえて生きるしかないとする、例えば柄谷行人漱石解釈のただただ虚無的な孤独を見つめる他ない実存性の暗部に突き当たるように。ある種の後ろめたさと虚無的な停滞性による共有できなさを起点として、「淋しさ」の共通認識(同一性)を立ち上げても絶対的・根源的なバラバラさ(差異)が孤独として居座り続けてしまうように。

 

夏目漱石『こころ』をどう読むか: 文芸の本棚

夏目漱石『こころ』をどう読むか: 文芸の本棚

  • 発売日: 2014/05/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

奥泉光いとうせいこう 文芸漫談

奥泉 漱石の孤独は「コミュニケーションに失敗する人間の孤独」です。

いとう 他人と仲良くなりたいけど、うまくいかない人たち。

奥泉 彼らは関係を持ちたいという強い熱意や意欲を持っています。でも失敗に終わる。

 

上に引用したように、奥泉光は『こころ』を「コミュニケーションが失敗して転倒したディスコミュニケーションによる孤独」だと述べています。その根底にあるのは「失敗に終わるコミュニケーション」です。その意味では『俺ガイル』も「コミュニケーションの失敗が転倒してしまう」物語だと言えるでしょうか。例えば3巻のすれ違いは示唆的です。由比ヶ浜結衣比企谷八幡の誤解はラブコメ的に解決したかのように読めますが、防衛的に相手の行為や態度を捻じ曲げて解釈してしまう「自由な不自由さ」やままならない「他者」との距離感が執拗に描かれていました。たとえ相手を思いやるようにして線を引いて距離を取る行為も、正しく相手を見ることなく自己正当化するのは自意識の保守化と温存に他なりません。それが意味するのは比企谷八幡にとっての認知バイアスでしかありませんでしたが、「バイアスによって行為が確定した」と説明することは完全に思考をトレースしたとは言い難いでしょう。実際「バイアスによる説明」はトートロジーでしかありません。つまり「なぜそのようになってしまったのか」といった認知バイアス的に精神分析的に比企谷八幡を解釈するよりも、「その結果、どのように失敗して転倒してしまったのか」に重点を置きたいと考えています。それは偏に『俺ガイル』が、比企谷八幡を始めとしたキャラクターたちが「コミュニケーションに失敗」し、「分かり合えなさ」に直面しては(ハッピーエンドの否定のように)反物語として立ち止まって「まちがえて」しまう転倒の産物に他ならないからです。

冒頭に比企谷八幡のテキストへの批判があるのはこれまで通りの反復と読めます。持たぬ「残念系主人公」による「残念」なテキストであり、比企谷八幡の人となりの証明となる一方でアイロニカルなコメディに映ります。『こころ』読書感想文は中学生時代に書いたと言っても、その「残念」な連続性が担保されていることを意味しています。

税の作文も同様です。累進課税制度に託けたリア充批判も反復的であり、1巻の冒頭のテキストからの展開として読めるでしょう。「持っている」者がいる。他方で「持たなさ」「持てない」故に平等であることを謳う文句に懐疑があります。自分が「持っていない」ことが証明となり、その「持たなさ」は負担として露わになる。それでこそ「持っている者」に累進的に負担を課することが再分配における平均化を求めて、平等を志すならば「持たぬ者」よりも「持つ者」に対して、機会の平等ではなく負担の差異、格差に応じた制度こそが合理的だとする格差批判となっています。「持たなさ」による格差に紐づけて「持つ者」=リア充への批判がアイロニカルに記されていた、と言えるでしょうか。

執拗なリア充への嫉妬・批判と読めますが、冒頭に立ち返ると『こころ』読書感想文であったように、満足に愛を得ても渇かない共有できない孤独を書いていました。「持つことができない」ことへの理解がありますが、一方で「持っている者」=リア充に対する無理解もあると言えます。「そちら側」ではなく、「こちら側」であることにアイデンティティを見出しては一方向的な「正しさ」を引き寄せているのが比企谷八幡です。それを認知バイアスと称しても差し支えは無いでしょう。

P21 要するに、ぼっちとは周囲の人口密度を指すのではなく、個人の精神性をいうのだろう。どれだけ近い距離に人がいても、それを同種と認めなければ渇きが潤うことはない。

「個人の精神性」や「渇き」は明らかに『こころ』から導かれています。あるいは、その影響を感じさせるモノローグと言ってもいいでしょう。「個人の精神性」というミクロから、マクロとしての共通認識の個人の確立は他者に接続されることで「渇きが潤う」。その過程で、孤独であることの「個人の精神性」は相対的に癒えます。 

「人間、興味のあるものしか視界に入れないし認識しない」という書店でのモノローグは、人は見たいものしか見ない認知バイアスに通じる文脈と読めますが、ここでは戸塚彩加材木座義輝との違いがユーモアに描かれている。「認識されたい」戸塚彩加が、戸塚の友達と一緒に居るところを見て、未知の「友達の友達」といった交友関係にショックを受けるシーンのように。恰も自分だけが友達というわけでもないのに友達の占有率を勝手に競うが如く何番目の友達であるか、とランキングをしてしまう傷つきやすい自意識は、友達の存在とは「そんなものではない」のに関わらず、「個人の精神的な話」としての収まりの悪さが描かれています。また、戸塚彩加スクールカーストから如何に自由であるかの一端を垣間見えたとも言えます。テニス部やテニススクールといった教室以外の場所がある。その数はコミュニティとしての居場所の有無に直結します。コミュニティの件は後の海老名姫菜の話に通じていきます。

「認識されなくてもいい」材木座義輝もゲーセン仲間と一緒にいるところを見かけます。 そして「認識したように思えた」雪ノ下雪乃と書店で会いますが、見事に無視されます。三者三様の一方向的な認識のズレと拒絶は、双方向性を立ち上げないまま比企谷八幡の孤独な視点を必要以上に暗くせずにユーモアかつシニカルに語っている。「個人の精神性」としての孤独の在り方が、一人であることの自己肯定に繋がり、逆説的に一人でいることを否定される謂れはないとする「こちら側」のアイデンティティを補強します。孤独との向き合い方・理解への距離感は『こころ』を引用しているように4巻の根底にあると言えるでしょう。

P30 今日も世界は俺が関わらずとも正常に回っている。(…)

かけがえのない存在なんて怖いじゃないか。それを失ってしまったら取り返しがつかないだなんて。失敗することも許されないだなんて。二度と手に入らないだなんて。

だから、俺は今、自分が築いている関係性と呼べないような関係性がわりと好きだ。何かあればたやすく切れて、誰も傷つかない。

 

戸塚彩加たちと双方的に「認識しないまま」すれ違うことで、孤独と関係性を見つめる比企谷八幡ディスコミュニケーションへの信頼が述べられています。関係性がべったりとする前に、「空気を読んだ」上でのリスクヘッジは傷つかないことを目的としています。傷つかないようにすることは関係性の話であるので自分と相手を含んだものでしょうが、たとえ個人ならば傷つき方はコントロールできます。しかし、関係性となると他者という不確定要素が混在することで物事が入り組んでしまう。 

戸塚彩加材木座義輝、雪ノ下雪乃といった彼らとニアミス的に比企谷八幡接触し、それを「認識していても」必要以上にアプローチしていないデタッチメントこそが、ディスコミュニケーションを前提とした関係性への安心感と呼べるでしょう。そんな比企谷八幡の在り方に介入してきたのが由比ヶ浜結衣でした。彼の思惑とは異なったコミュニケーションを基調とした関係性という不確定要素(偶然性)に取り込まれていることを意味しています。本当に孤独であるならば何も起きないし、接触もありません。由比ヶ浜結衣に踏み込まれることもないでしょう。

しかし、由比ヶ浜結衣は自然と踏み込んで来ます。それを受け入れるには準備がいる様は、コミュニケーション不全な比企谷八幡と言えますが、3巻の由比ヶ浜結衣との関係性をリセットしたにも関わらず、雪ノ下雪乃の「加害と被害」のロジックによって別のコンテクストが与えられたことで関係性の始め直しが行われ、妙な整合性と新たな経験への違和感でしょう。

比企谷八幡としてはリセットでゼロベースに終了。それと異なる距離感が発生している由比ヶ浜結衣は未知なるコミュニケーションの可能性とも言えます。雪ノ下雪乃に「被害者としての共通認識」で纏め上げられたことも詭弁と言えば詭弁でしょうし、それを比企谷八幡が丸く飲み込んだとも3巻時点では正確には語られていません。つまり由比ヶ浜結衣は自然に飲み下したとしても、比企谷八幡が同様であるという保証はありません。互いに3巻とは異なったコンテクストによってズレている可能性もあると言えます。それは比企谷八幡の「個人の精神性」の話であって、由比ヶ浜結衣との差異です。彼女には始め直しの意味やロジックも必要ありません。ですから、雪ノ下雪乃が与えたのは「比企谷八幡由比ヶ浜結衣」に対するものでしたが、その意味を噛み砕くと双方向的に同期させるために由比ヶ浜結衣をケアしながら比企谷八幡にロジックを与えたのが正しいと言えるでしょう。そういう動機がなければ動けず、雪ノ下雪乃という客観的視点によって与えられたために、比企谷八幡としてはズレを押し込まれた形です。新たな経験を持ち込んだ関係性の温存として。

ここでは比企谷八幡由比ヶ浜結衣に対して、3巻以前の「まちがい」をしないように努めています。勘違いや期待しないようにして、そうでなければ誤解してすれ違う反復に陥るので意識的に距離を保っています。その苦労はモノローグで語られ、比企谷八幡自身のメタ認知的に誤解に没入しないように警戒がなされています。

しかし、接触があった時点でディスコミュニケーション的関係性ではなく、コミュニケーションを前提とした「青春のエコシステム」には既に乗っかっていると言わざるを得ません。

P40 藍色と茜色とか入り混じる黄昏時。その境目を見極めるにはまだしばらく時間のかかりそうだ。

由比ヶ浜結衣とのやり取りを終えた後、帰路に着く際の風景が語られています。

ディスコミュニケーション的な関係性とは呼べない関係性について、曖昧なニュアンスを醸し出す「黄昏時」との親和性があります。「境目」が見極められないのは、心地よいディスコミュニケーション的関係性が、由比ヶ浜結衣によってコミュニケーションに転倒したことによります。「見極める」には時間が掛かること自体がモラトリアム的でしょうし、その「境目」に自分自身が没入していて「青春のエコシステム」的に内面化してしまっているとも言えるでしょうか。安心感のある曖昧な関係性、名前を付けられないものに耽溺すればするほどにエコシステムに織り込まれていってしまう。

比企谷八幡の一人称で物語が綴られている『俺ガイル』ですが、彼は時には多くを語らないし、語り得ないこともあります。第1章「こうして比企谷八幡の夏休みが過ぎてゆく。」は、特に大きなイベントがあるわけでもありません。それこそ曖昧にニアミス的に接触しただけです。その都度、関係性の再確認をしますが「黄昏時の境目」を断定する術は持ちませんでした。

この帰り道、由比ヶ浜結衣とコミュニケーションを取った後の比企谷八幡の「火照った頭」が夕涼みに当たるシーンがあります。比企谷八幡がどのような感情で由比ヶ浜結衣と接したか。意識的に距離を保っていたとしても、彼の一人称であっても必要以上に顔が見えません。「火照った」という事実は、由比ヶ浜結衣と別れた後に語られたように。

真夏の雑踏での由比ヶ浜結衣との会話。夏の暑さによるものなのか、彼女とのやり取りによるものか。このシーンも「境目が見極めにくい」曖昧なニュアンスだと言えます。

比企谷八幡は「信頼できない語り手」であるために、全てを語り得ることはできないし、時には読者に対しても沈黙している。

しかし、このシーンでは風景が内面の代わりに語るように比企谷八幡というカメラが向けられています。「境目が見極められない黄昏時」の風景と「曖昧な」内面が一致するように「境目」に語らせています。「火照った」という事実と「黄昏時」という風景と内面が語られていない事実による三竦み的な緊張関係が見て取れ、「境目」のように限定させない事実の列挙のみがあります。この緊張関係が曖昧さを担保しています。

「自己変革を拒否した変わらなさ」に拘泥している比企谷八幡ですが、ゆるやかな変化がありました。ニアミスといっても接触機会の増加があり、その対比としての孤独を見つめています。そんな体験からみても孤独であることに寄り添うような自己肯定は、これまでのボッチあるあるやアイロニカルなネタではありません。

比企谷八幡にとって例年通りの普通の夏休みとは、日常化した引きこもりです。遊びに行かず自宅で自己完結。

そんな折に平塚静から連絡が来ます。ボランティア活動という奉仕、部活動は非日常的=イベント的であり、「依頼」がなければ動かないデタッチメントの様が滲み出ています。積極的に関わらない主人公を物語に駆動させるには、「依頼」から受動的なコミットメントへとスライドさせるものであり、もはや孤独的に自己完結できないくらいには関係性に組み込まれて接触していることが分かります。「依頼」を通して、日常と非日常の揺らぎのような「残念」な部活動に「残念」なデタッチメントは崩されていく展開だと言えます。引きこもりの語り手であっても既に巻き込まれてしまっている。「関わりたくない、関われないキャラクターが関わったら」という「境目」への「移動」は、デタッチメント的固有性の揺さぶりとなります。

千葉村で葉山隼人らと合流するシーンがあります。ここでも由比ヶ浜結衣がある種の番となっています。奉仕部と葉山グループの間を取り持つように中間的な存在として位置している。 

比企谷八幡雪ノ下雪乃が別のコミュニティと接触するのは2巻以来となります。その際には、チェーンメールを巡るスクールカースト上位の葉山隼人たちの問題点の確認でしたが、後に由比ヶ浜とのすれ違い、3巻に物語の比重が置かれていったので、具体的なスクールカースト上位との接触は4巻となります。

「依頼」から非日常的なイベント。別のコミュニティ。完全にデタッチメントであることを保てない状況と言えます。そうした状況について平塚静は無視するわけでもなく、対立するわけでもなく、上手くやり過ごすことが社会に適応することであると説き、「上手くやる」ことを促します。適応できない、変わらないことに自覚がある比企谷八幡には「上手くやれな」ければ、そんな経験もありません。経験的にロジックを構築して納得する筋道を探してきたのが彼だとするならば、この非日常的な状況からデタッチメントから「移動」して「上手くやらざるを得ない」ために新たな経験によるコンテクストを立ち上げるしかありません。

P79 畢竟、人とうまくやるという行為は、自分を騙し、相手を騙し、相手も騙されることを承諾し、自分も相手に騙されることを承認する、その循環連鎖でしかないのだ。

なんてことはない。結局それは彼ら彼女らが学校で学び、実践しているものと同じ。

組織や集団に属するうえで必要な技能であり、大人と学生を分けるのはスケールの違いでしかない。

なら、結局それは虚偽と猜疑と欺瞞でしかない。

 

 

P217 リア充リア充としての行動を求められ、ぼっちはぼっちであることを義務づけられ、オタクはオタクらしく振る舞うことを強要される。カーストが高い者が下に理解を示すことは寛大さや教養の深さとして認められるが、その逆は許されない。

それが子供の王国の、腐りきったルールだ。実にくだらない。

世界は変わらないが、自分は変えられる。なんてのは、結局そのくそったれのゴミみたいな冷淡で残酷な世界に順応して適応して負けを認めて隷属する行為だ。

 

引用した二つは文脈が異なりますが、比企谷八幡の潔癖性が如実に表れているという点では共通しています。

前者と後者にも共通していますが、比企谷八幡曰く「上手くやる」ことの無難さとは偽りのコミュニケーションに隷属したものだと整理しています。その状況は「コミュニケーションを守るためのコミュニケーションの身振り」そのものであり、キャラ化やスクールカーストに倣った安全な欺瞞的距離感への奴隷だとも言えます。付き纏う偽りの安全圏が示す距離感はビジネスライク的であり、「上手くやる」ことは自分を騙して誤魔化す類いであると潔癖的拒絶をしています。

そんな比企谷八幡の潔癖的一貫性(アイデンティティ)にある、ありのままの孤独は裏返しとしての「コミュニケーションのためのコミュニケーション」の否定であり、欺瞞を日常化することへのカウンターとして機能している。

一方で葉山隼人は「上手くやる」のお手本です。比企谷八幡との明快なコントラストがあります。

しかし「上手くやる」ことが常に「上手く」いくわけでもありません。「まちがって」しまうこともあります。押し出されるように比企谷八幡的な文脈が前景化した形となり、それは「上手くやれない」ケースを「上手くやろう」として「まちがえる」ことを意味します。もちろん葉山隼人性善説的な調整力、上手さが「上手くない」ことになるときもあります。この葉山隼人性善説は、夏目漱石『こころ』との対比としてあります。『こころ』は性悪説に立脚していると江藤淳は記していますが、詳細は後述します。まずは話を進めましょう。

「上手くやる」ようにして集団に適応する。比企谷八幡雪ノ下雪乃が「上手くやる」ことを求められながら、同時に「上手くやれて」いない鶴見留美の孤立が描かれています。集団から一方的に除かれているシーンは孤独とは異なった「孤立」の状態。

友達がいて学ぶこともあれば、友達がいないからこそ学ぶこともあると比企谷八幡は孤独という選択的状態を肯定しますが、「孤立」は強制的に目立つことで浮いてしまう。「孤立」とは異なりますが、偏に孤独の両義性があります。孤独であることが悪い意味で浮いてしまう、といったネガティブとしての可視化が鶴見留美を通して描かれています。

これまでの比企谷八幡のボッチ語りは、あくまでもアイロニカルにポジティブなものでした。それは経験則から導かれた処方箋であり、同じ孤独でも強制的・差別的な鶴見留美とは違います。選択的な孤独を自己肯定に繋げているのが比企谷八幡であるならば、鶴見留美はアイロニカルに包み込むことで現状を追認している受動的な強制的選択でしかありません。この差異はとてつもなく大きい。

「空気」による圧力は集団から排除として表れ、作中ではスクールカーストが完全に可視化されていないとする小学生ですら、グループ内部で差異を作り、「鶴見留美とそれ以外」と差別的な構図を引いています。スクールカースト上位と下位とは異なった文脈の「空気」から外れている状態は、孤立した鶴見留美の現状を「異物感」として描いています。「中間」を描かない『俺ガイル』にとって、「鶴見留美とそれ以外」は「比企谷八幡葉山隼人」といったような二項対立的に図式に持ち込みやすいですが、「孤独か孤立か」の差異は差別的な異物として作用している。浮いている状態を強いられているのは集団からの悪目立ちであり、「空気」から一度外れることは集団として画一化、平均化できていないことによる弊害となります。このような「平均化」の作用は冒頭の累進課税制度に託けたリア充批判を連想させますし、「平均化という空気」の同調圧力の惨たらしさを「孤立という状態」を通して再帰的に扱っていると言えるでしょう。

果たして「空気」に飼い慣らされることが良いのでしょうか。また、孤独であることが悪いことなのでしょうか。もちろん孤独であることは悪いものではありません。

しかし「孤立」は異なります。半ば強制的に「空気」に晒され、均質化していないことで浮いてしまう排除の論理はマジョリティに都合のいいものに過ぎません。そこから外された者には弱者としてレッテルを貼られ、声を挙げる機会すら奪われますが、4巻では差別的に強いられている鶴見留美だけにスポットが当たり、逆説的に声を挙げられるように固有名を与えられています。他方でマジョリティである「それ以外の彼女たち」は「空気」と一体化しているために固有名はさほど重要なものとして扱われていません。その固有名の不要さが「空気」の持つ匿名的な平均化の力学だと言えます。

そして、そんな差別的な構図を引かれてしまっている鶴見留美を見やるのは、「空気」から外れて確かな「個人の精神性」を出発点としている比企谷八幡雪ノ下雪乃です。ある意味では「空気」へのカウンターというポジショニングは、鶴見留美的な差別的文脈とは異なった対立的な文脈としての二項対立ありき(「性善説性悪説」、「葉山隼人比企谷八幡」のように)の語りと言えるでしょう。

「空気」に寄りかかった者とは異なり、確信的な意味で反発することで「平均や普通」を揺さぶることは、そこからはみ出ているポジショニングならではの所作です。だからこそ比企谷八幡の「孤独の主張」は「空気」や画一化が進めば進むほどに反発的な物語におけるカウンター的・力学的作用は大きくなります。その特異性は認めていても、やはり前述のように二項対立という前提に支えられたエコシステム的な調停に映ってしまうのも事実です。その分裂が大きく反発して拡大化しては、比企谷八幡葉山隼人の裂け目がコントラストのように表れても、システム的には混在することで調整が図られている作用があるでしょう。そのシステム的な流れに取り込まれて飼い慣らされることが社会に適応することであり、「上手くやる」ことだとしても。その結果、「上手くやれた」としても比企谷八幡が拒絶した欺瞞とどのように異なるのでしょうか。そこに違和感を差し込んでいくのが『俺ガイル』のある種のモラトリアム的応答とも言えます。

「上手くやる」ために別のコミュニティと接触することで、案外他人に見られている比企谷八幡という構図があります。別のコミュニティである葉山隼人たちも自然に距離を分け隔てもなく接することで、対照的にその身振りや距離の詰め方を意識してしまう比企谷八幡の自意識とコミュニケーションを守るために繋げることのできない不全性があります。そして、同時に自分のことはよく見えていません。他者が自分を認識しているという事実と自分が必要以上に認識されていないとする自意識過剰さは自身の存在感や意識を抑制していても、コミュニティが混ざった一つのグループという塊なので、目の届く範囲が集合的に集中した形で限定されるために自然と意識が行き届いてしまう結果です。 

その延長にあるのは「上手くやる」ために葉山隼人は違和感に気付き、だからこそ自然と鶴見留美に話しかけます。彼女の「孤立」は目が届く範囲であり、「上手くやれていない」ならば「上手くやる」ために手を差し出す対象として気にかかる。

しかし、作中では「上手くやる」ための距離感が悪手でした。寧ろ「孤立」していることの特殊性を引き立ててしまい、単独的に自己完結しているならばまだしも特殊性を引き受けざるを得ない状況が晒され、悪目立ちが加速してしまう。葉山隼人の自然な優しさや気遣いですら同情的に映ってしまう。このような言葉と行為と態度がすれ違ってしまう伝達不可能性は、3巻の比企谷八幡由比ヶ浜結衣の件を想起させます。善意がそのまま正確に受け取られるとは限らない。意識と距離のズレは存在し、それを調整するために「上手くやる」にしても「上手くいかない」。特殊性を際立たせる「孤立」が生み出す差異は、身体的・精神的な距離を劣等感に変換させながら、他者との距離を不透明にさせてしまう。その結果、「上手くやる」にも方法が必要となります。孤独には孤独への寄り添い方があるように。

鶴見留美比企谷八幡雪ノ下雪乃に名前を訊くシーンは「みんな」とは違うことを認識したためです。「空気」から外れている者への同属的な安心感があったからでしょう。互いに距離がズレたもの同士といった相互認識は「みんな」をあちらに置いて、「こちら」で特殊性を引き受けた内輪を作る。「あちら」と「こちら」は、「みんな」と「孤独」の二項対立であり、そのまま葉山隼人比企谷八幡の距離としてコミュニティが混在するからこそ逆説的に可視化されています。 

鶴見留美の「孤立」は同調圧力による無視が原因でした。「調子に乗っているから」といった「気分」に左右される立ち位置。「みんな」が形成する「空気」には誰も逆らえず、匿名的なマジョリティという側を持つことで誰しもが無自覚な暴力性に加担してしまう。「みんな」から外れる事実は屈辱的であり、劣等感として表れます。『こころ』にもありましたが、「普通の人」がインスタント(いざと言う間際)に悪になってしまう。意識的に手軽な正義を振りかざしたつもりで、無意識的な暴力性を担ってしまう。その排除の論理が「正義と悪」を容易に反転させます。まさに「いざと言う間際に」都合のいい正義の解釈と行使には、常に「正しさ」を引きつけている安心感があります。

しかし、厳密には加害と被害は分けられない円環的で流動的なものです。二分法ではありません。それこそシステム的に取り込まれており、その立ち位置さえも「空気」のように移り変わる。だからこそ「空気」を読んで安心できるマジョリティの空間を作ることで、常に「正しい側」に付くことが処世術であるとする身振りは、都合よく流動的に態度と行為を反転させます。「空気」や同調圧力から後発的にロジックを構築し、反転した通りに倣うある種の純粋さがありますが、その「こちら側」の「正しさ」の価値は党派的なものでしかありません。前述のように「加害と被害」は円環的であり、まさにシステム的に「正しさ」は流動的であっても、常に「正しい側」に付くように反転しても付随する身振りの速さこそが倫理的とは異なった意味での「気分」であり、転々とする「空気」のように軽い都合の良いものです。その意味では「正しさの側」に身を置くことは解釈次第であり、連鎖的な「空気の入れ替わり」が党派性を持つことで窮迫的に拡大化していく。その連鎖は内部で「内々部と外部」を流動的に立ち位置を確保しながら、「空気が読める/読めない」の仕分けを縮小再生産していく運動性とも言えます。

物語は鶴見留美の問題をどうするかに焦点が絞られていきます。

自発的に「孤立」している、つまり孤独を選択しているのではなく、悪意や環境によって「孤立」させられていることが問題だとする比企谷八幡からすれば、孤独であることは否定されるものではないとする信念は彼のアイデンティティであり、選択した状況であるかが重要となります。

しかし、鶴見留美は環境によって「孤立」を強いられていることが問題となっています。彼女を取り巻く問題に対して、一見優しく振る舞うことは同情に映り、偽善的で欺瞞に思えてしまうのが比企谷八幡です。このような潔癖性とある種の卑小さの抱き合わせが働いてしまう倫理観は、吉本隆明夏目漱石の「倫理感」と称したものに接近していると言えます。

また、2巻、3巻の由比ヶ浜結衣とのすれ違いに近く、距離の不透明性と伝達不可能性を思わせます。力なき優しさは行為の曖昧さとなり、責任を取ることもありません。安全圏を確保した距離感で憐れむことで自分たちも同期的に悲しいと連帯する。当然、距離の問題があるので同期的であるかは疑問符が付きます。ここで問われているのは距離の問題であり、つまり当事者性の問題となります。もちろん当事者だけでは限度がありますが、ただ外野から「責任なき優しさ」は無責任でしかなく、欺瞞なのではないかという疑いは避けられません。この懐疑的な眼差しを介さずに「都合の良さ」だけを主張するのは、虚偽的な「青春フィルター」への嫌悪感を述べた1巻冒頭の反復的な文脈となっています。「青春」における偽善的な免罪符を撥ねつけるからこそ比企谷八幡の立ち位置が逆説的に担保され、拒絶することで「まちがっている」ことへの提起となり得る。 

ここで海老名姫菜が鶴見留美の問題に対して、趣味のコミュニティを作れば解消される提案します。つまり別のコミュニティを作ることで、現状の居場所を巡る問題から居場所の数を増やしてズラす。現状の「空気」に対抗するためには別の居場所を作ればいい。「みんな」とは違う「みんな」を求めることは出来ます。「学校と家」しかない学生時代の世界観から、他にも回路があることで「呼吸ができる場所」を確保すればいいというものでした。実際、SNSなどのインターネットもあるから「つながる」こと自体は現実的でありますし、それが実際「世界」となるかどうかはまた別の話になるですが、ここでは具体的な検討に入らず、海老名姫菜の腐女子ネタで物語上頓挫します。たとえ打ち切られていなかったとしても、鶴見留美に趣味コミュニティのススメを持ちかけることは出来ますが、物語的にはそれ以上の目に見える直接的な働きかけはできないでしょう。あくまでも鶴見留美次第です。 

 

 

例えば、石川善樹・吉田尚記『どうすれば幸せになれるか科学的に考えてみた』では、石川善樹が「欲望が変わると、コミュニティも変わる」という趣旨を語っていましたが、複数の欲望を持つことは、コミュニティの数として表れ、3つ以上だと長生きになるという話があります。

「学校と家」以外にコミュニティを持つことは不自然なことではありませんし、作中でいえば戸塚彩加にはテニススクールが、材木座義輝にはゲームセンターが該当するでしょう。ですから、鶴見留美が他で「つながる」可能性自体は否定されるものはありません。しかし、ここで物語的に重要なのは外部的な距離を持つ者がどのように働きかけるか、同情的かつ欺瞞的ではないコミットメントができるかという話になるので、その可能性は横に置かざるを得ません。

「みんな仲良くしよう」という性善説的な葉山隼人のアプローチを否定する比企谷八幡の対立構造があります。「みんな仲良く」という理想が現実を歪めてしまっていることを指摘します。実際は「みんな」とは仲良くできないし、「みんな」から外れることで劣等感を抱いてしまう。鶴見留美のように。そのコンプレックスを労わる行為は一面的には同情であり、偽善に捉えられる。「みんな」によって追いやられているのにも関わらず、「みんな」に組み込まれないために「仲良くできない自分」は惨めであると。無自覚的な「みんな」という暴力性が「みんな」という無意識的集合に見られます。性善説的である葉山隼人は 「みんな」の可能性を疑いません。「みんな仲良く」は理想でしかなく、それは「理想と現実」であって、実際に「みんな」から外れ、選択したわけでもないのに孤立を強いられてしまっている。「みんな」という実体のない気分に左右されることは、無邪気にスケープゴートを立ち上げることで「みんな」を維持しようとする共同体の一面が描かれています。「みんな」に入れていない鶴見留美の視点を用いて、孤立側から見やることで「みんな」という共同体の無邪気な楽観性を炙り出すような比企谷八幡の言及は、理想的な葉山隼人を否定することで、現実的に「こちら側」が「正しい」とする構図を引き寄せるものです。

しかし、比企谷八幡が常に「正しい」わけでもなければ、「まちがって」いない保証はありません。それは「信頼できない語り手」であると同時に「まちがい」たくないのに「まちがって」しまう。超越的な視点を持てず、やり直しがきかない一回性のルールに囚われざるを得ないためです。それでも3巻ではすれ違いから「まちがって」いても始め直すことが出来る、といった新たな経験を獲得したわけですが、その意味では『俺ガイル』は「コミュニケーションに失敗」して「まちがって」歪んでしまった後、転倒した距離感の調整と修正は出来るのかどうか、といった物語とも言えます。

話を戻しますと、比企谷八幡は「みんな」が持つ暴力性を糾弾することでポジショニングしています。葉山隼人とは対照的な位置取りをしてみせながら、「みんな」に対する性悪説的な意見が覗かせます。それは『こころ』が荀子性悪説を意識したものであるために、この対立軸は必然的なものだと言えるでしょう。

同情的な安全圏からではなく、「加害と被害」が明確に分けられない円環的に組み込まれる距離感を通じた自覚的なアプローチでしか偽善からは離れることが出来ません。それ以外は欺瞞であると撥ね付けることで、倫理的な潔癖性は固定化していても、「正しさ」自体が付随するかのように固定化するかどうかは別の話です。「青春フィルター」がそうであったように、このような潔癖的フィルターからみても「理想と現実」を参照して「理想的から逆算して現実的に正しい」と思い込んでしまう。やはり理想は理想でしかなく、圧倒的な現実に抑圧された形で擦り切れたものとなります。

 

赤めだか (扶桑社BOOKS文庫)

赤めだか (扶桑社BOOKS文庫)

 

立川談春『赤めだか』で、立川談志が「現実は正解なんだ」という言葉を遺していますが、どのように残酷的に抑圧されていても、ある種の「現実の正しさ」は常に前景化していると解釈できます。だからこそ捻じ曲げられない様に「まちがえない」ようにするわけですが、鶴見留美を通して過去に囚われ、罪悪感を抱いている葉山隼人由比ヶ浜結衣といったスクールカースト上位の後悔が暗に示されています。彼らが明快に口にしたわけではありませんが、同様に「みんな」ではなかった側の雪ノ下雪乃が敏感に嗅ぎ取っています。

P176 それゆえに、知っているのだ。罪悪感という感情を。由比ヶ浜の優しさは慈母のそれではない。醜くて辛くて逃げ出したくなるようなおぞましい人の性根の存在を自覚しているからこそ生まれている。それでもなお目を逸らさずに手を伸ばす強い優しさだ。

「みんな」という排他的な同調圧力が持つ暴力性に少なくとも自覚的であったように思えます。「上手くやる」ことが求められる中で、「上手くやれなかった」=「まちがった」ことへの罪悪感は、その意味ではスクールカースト関係なく持たざるを得ないものかもしれません。「孤立」を生み出した「みんな」側の一部が、少なからず無邪気な暴力性の過去を背負っている。

由比ヶ浜結衣が目を背けずに同情的ではなく、欺瞞的ではないとする意思を「強い優しさ」と比企谷八幡は表現します。「空気」の加害性に自覚的であるかどうか。由比ヶ浜結衣と三浦優美子たちとはまた異なるでしょう。ネガティブ・フィードバックからの意思の志向性という点において、表層的な優しさではありません。ここで問われている「強い優しさ」は、決して同情や憐れみではない。過去の負い目から逃げない所を起点とした優しさであり、表面的であるか潜在的であるかと分けることが出来るでしょう。かといって、その意思が相手に正しく受け取られるかどうかは別の話です。3巻のすれ違いは「優しさ」の文脈とは違えど、コミュニケーションに失敗してズレていってしまう伝達不可能性の距離感を戯画的に露わにしたと言えますが。

第6章で比企谷八幡は水着を一人だけ持ってきていません。ラブコメ的でありながら、ここでも孤独的であります。外れた所から一人だけの視点で語られるカメラの位置を担うことで、状況整理のために俯瞰で見るような構図となっています。「夏休みぽい」ことをしているのに一人だけ没入しきっていない。完全に「青春」を内面化しないポジショニングです。たとえ相手から誘われたら、条件反射的にテキトーに曖昧に返してしまうのは期待してしまうから。認知バイアスによって正しく歪み、勘違いしてしまうためですが、裏切られた時のリスクヘッジを図っているとも言えます。3巻のように。テキトーな曖昧さで担保する自己保身は、厳密なノリが合う/合わないといった「空気が読めていない」というスティグマから逃れるために、一応「空気を読んでいる」つもりであっても確証が得られない不安を遠ざけるものです。自分は「異物」ではないかと自己認識することで、ある一定のコミットメントから差し引いたリスクを緩和するためのテキトーな曖昧さであり、だからこそ受動態がベターになってしまう。

鶴見留美のデジカメも受動的な産物と言えます。思い出や友達との写真を撮影するメディアですが、「親―デジカメ―鶴見」「鶴見―デジカメ―友達」の二重の番となっているように、デジカメは関係性とコミットメントの象徴となっています。

しかし、鶴見留美のデジカメは撮るべきものがありません。思い出を撮るということは、関係性を表象することとなりますが、撮るべき関係性がない。二重の番として機能しているデジカメは、コミュニケーション(関係性)を表象するものでありながら、ここでは一方向的に切断されているディスコミュニケーション(孤立)が暴かれています。

デジカメを向ける先は、鶴見留美の目線そのものであり、フレームです。そのデジカメは無効化されている状況で、撮るべき対象を持たない。他方で、彼女に注がれるネガティブな目線は「みんな」によるものです。その「孤立」は「みんな」から見られることで成立してしまう。

本来、カメラは対象や関係性を写すものです。つまり、主体的に見るものであるのに、「みんな」から見られる対象として鶴見留美の「孤立」が描かれている。その印象はネガティブな意味を強調させます。デジカメはそんな手持無沙汰なコミュニケーション(関係性)の転倒の比喩にも受け取れる。二重の番がある種の呪いとして読めるように。

ここで、比企谷八幡は問います。自分を変えるか、世界を変えるか。自意識の問題とも置き換えられますが、実際は関係性や環境を変えるべきでしょう。鶴見留美の諦めは状況の「変わらなさ」に起因するものです。

例えば、私たちは「生の現実」というそのままのメタデータを完全に認識できません。バイアスが掛かり、フィルターバブルのように見たい欲求に従って見てしまう。現実という膨大なメタデータを認識することはできませんが、表象・記号的に落とし込むことで、はじめて「現実を知った」という錯覚を持つことが出来ます。つまり、「ありのままの姿」といったものは複合的な表象でしか認識することが出来ません。ペルソナやキャラはその意味では規範意識の集合であり、他者を通じた(ディスコミュニケーションも含む)関係性の表象とも言えます。その関係性というのは、「空気」やキャラに見合った行動や態度を現実的に要請されてしまうことで成立することが出来る。その意味ではキャラや「空気」に隷属する態度と重なりますが、それは自己欺瞞であると比企谷八幡は否定します。キャラであり、「空気」を読んでいるからといったエクスキューズに収斂されるノリに自分を誤魔化しているに過ぎないと。他者との関係性によって炙り出されるものであり、本質的には「自分が無い」ように見える結果は、自分が合わせたくないものさえも「空気」に要請され、集約される息苦しさと許容してしまうこと自体の嘘は「ありのまま」を偽るような錯覚の産物ですが、それすらもコミュニケーションに組み込まれています。「空気」が先にあり、「個人の精神性」は抑圧される。そういったロジックが導くのは、キャラによる誤魔化しは欺瞞でしかないとする「個人の精神性」=比企谷八幡的潔癖ですが、「空気」から外れることで孤独的ありながら「個人」を重んじる比企谷八幡のキャラクター性も二項対立的であると指摘することは可能でしょう。「公」や「空気」への倫理的な反動があって構図は成立し、欺瞞自体に対する潔癖が先行しているのが比企谷八幡のロジックです。「あちら」に偽りがあるとして、「こちら」に正しさを引き寄せる構図は一面的な見方ですが、実際は互いに正しさを手繰り寄せている反復的構造が「どちら側」からもなされているように考えられます。「空気」か「個人」かに要請されているかの差異であり、その結果「空気」を読む/読まない、コミュニケーション/ディスコミュニケーション自体も二項対立ありきで支えられているように列挙されています。ここでは二項対立の提示だけに留めておきますが、厳密には、鶴見留美の問題はデジカメのように関係性に集約されるものです。内部における政治性があり、「誰それと仲が良く、誰々と仲が悪い」といった関係性の距離の明示です。暗黙的了解が「空気」に馴染んでいるのであれば、その関係性を反転させて暴露すればいいとする比企谷八幡の提案は性悪説的な「解決ではない解消方法」です。

問題点が「空気」による関係性の温床とするならば、「ありのまま」の関係性を暴くことが目的とする提案は、「関係性の解消=問題の解消」とする。他方で葉山隼人性善説的ですから、その提案は「解決ではない」と主張することで対立軸とズレが鮮明となります。

「みんな」と共に関係性の再団結をするのが葉山隼人の意見であるならば、「みんな」との関係性自体を解体することで「みんな」という環境自体が問題だとする比企谷八幡の構図は、孤独と「みんな」への理解があるかどうかに回収されていきます。「みんな」を信じたい葉山隼人と決して「みんな」ではなくてもいいのではないかとする比企谷八幡のポジショニングは、「みんな」との距離感を暴き立てる図式となっています。半ば強制的な「孤立」は良くないとする共通の問題意識があっても、「みんな」を性善説的に見るか、性悪説的に見てしまうかに分けられている。繰り返しますが、比企谷八幡にとって「みんな」や「空気」に隷属して、キャラ化に集約することは自己欺瞞の類いと見なしています。「みんな仲良く」は孤独であることへの無理解であり、安全圏からの同情や憐れみに映る。葉山隼人の楽観性は現実を見ていないとするのが比企谷八幡ですが、この二人では見ている理想が異なるためにズレていると言えます。

比企谷八幡が提案した関係性の破壊は、彼自身も間違っていると自覚しています。

しかし関係性が問題の温床となっているならば、それ自体を解消することも悪くないとすることは、環境的な問題を自意識で解決できるものでもないことを示唆しています。それは「まちがって」いないとする消去法的にコミットメントする方法は「まちがい」の自覚がありながらも、選択できるコミットメントの限定であり、外部的な存在が内部へアプローチできるかどうかの距離感による限定でした。外部の存在が内部の集団にコミットできるかどうか。

素直な好意が余計なお世話に転換してしまうことは3巻のすれ違いにもありましたが、時と場合に左右され、状況と状態を理解せずに差し伸べる手は必然的に空回ってしまう。その意思を持つ者と受け手が性善説に置くのか、性悪説に取るのかは差異と齟齬として表れます。

P261 〝みんな〟が言うから〝みんな〟がそうするから、そうしないと〝みんな〟の中に入れてもらえないから。

でも、〝みんな〟なんて奴はいない。喋りもしなければ殴りもしない。怒りも笑いもしない。

集団の魔力が作り出した幻想だ。気づかないうちに生み出していた魔物だ。個人のちっぽけな悪意を隠すために創造された亡霊だ。仲間外れを食い殺して仲間にすら呪いを振りまく妖怪変化だ。

かつて彼も、彼女もその被害者だった。

だから俺は憎むのだ。

〝みんな〟であることを強要する世界を。

誰かの犠牲の上で成り立つ下劣な平穏を。

優しさや正義さえ塗りつぶし、悪辣なものに仕立て上げ、時を経てなお棘を残す、欺瞞でしかない空虚な概念を。

 

ここで語られているのは「みんな」や「空気」の同調圧力のグロテスクさに尽きます。「みんな」から外れる恐怖は「つながれない」ことへの不安を増長させます。その不安を安心や「平穏」に転換させるように結託するのが「みんな」という匿名的共同体です。

そこで「みんな」という「空気」を崩すことで、「平穏」の下で罷り通っていた排除の論理が反転します。犠牲の上で成り立つ「みんな」を共通的に犠牲の祭壇に上げることで、「みんな」という共同幻想が等しく浮かび上がっていくように。

恰も「みんな」に従順にならざるを得ない暴力性とその可視化を指摘することで、気分のように移り変わる「平穏なみんな」を解体しました。だから、ここでは固有名が並べられています。これまでは鶴見留美以外は名前を出す機会はなく、「みんな」と一体化しているためにその必要性もありませんでした。まるで生け贄送りのように固有名が捧げられている様は、それに応じた内々部でのヒエラルキーの再構成であり、厳密には「みんな」を崩すことで「鶴見留美とそれ以外(内部)」といった単なる二項対立ではなく、縮小的に「鶴見留美と内部から、内々部的」に破壊されていきました。鶴見留美を吊し上げていたことで成り立っていた「平穏な関係性」の前提にある「空気」を破壊することで、葉山隼人的な性善説が期待していた「鶴見留美とそれ以外」の協調精神を裏切るようにグロテスクに反転させ、前提にある「みんな」の内実を暴き立てたと言えるでしょう。その生々しさは性悪説的なひっくり返しであり、コミュニケーションの切断からディスコミュニケーション的倒錯した関係性の暴露でした。

しかし、鶴見留美がデジカメを使って窮地を救うシーンがあります。彼女が暴かれた「みんな」の正体という歪なものに手を差し出したと言えます。空虚で偽物だと知りながらも、手を伸ばす意思は本物と呼べるでしょう。

前述しましたが、デジカメは関係性の象徴です。鶴見留美にはデジカメを撮る対象や関係性は存在しませんでしたが、同様に「みんな」から外れてしまった彼女たちを守るためにデジカメは使われました。思い出を記録するものとしてではなく、外部に追いやられていた鶴見留美が回避行動としてデジカメを用いたことは、辛うじてある希薄なつながりを守ろうとする意思であり、環境的関係性への抵抗だと言えます。

P265 「――鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざと言う間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」(…)

「ああ。漱石はそう書いてたけど、逆説的に言やぁ、鋳型に入れたような善人もいないし、いざという間際に、急に善人に変るようなことだってあるんだろうな。たぶん」

 

鶴見留美の行動を受けて、比企谷八幡は読書感想文にあった『こころ』の解釈を新たに展開します。葉山隼人性善説的であり、『こころ』は性悪説的でしたが、その「鋳型」的な調停をどのように図るのか。その鍵が「いざと言う間際」の鶴見留美の行動による意思と関係性の反転にあったことは明らかです。撮るべき対象が無かったデジカメは特別な思い出に使われたわけでもなく、ただフラッシュを焚いたことで彼女たちを守りながら、「みんな」という空虚さに通じる闇を記録したとも言えるでしょうが、その意思は「いざという間際」の行動として「みんな」のように画一的ではない解釈の余地があります。 

江藤淳は『こころ』について、孟子とは異なった荀子性悪説を唱えていることを指摘しています。

 

漱石論集

漱石論集

  • 作者:江藤 淳
  • メディア: ハードカバー
 

 

この小説が『荀子』的な人間観に立脚していることを、作者自身が十二分に自覚していたことを意味するのではないだろうか。

ここまでの性善説性悪説の対立軸は、葉山隼人比企谷八幡にも表れていますが、『こころ』という作品自体が江藤淳によれば「荀子的」であると言います。

比企谷八幡が引用した『こころ』の「鋳方」の件は確かに「荀子的」であり、そのように解釈を引き受けるのがベターのように思えます。

荀子の言葉そのものといってもよいほどである。「人の性は悪、其の善なるものは偽なり」。世の中には、「悪い人間」という特殊なカテゴリーが存在するわけではない。人間はみな「悪」いのだ。「平生」善人のように見えるのは、「偽」の、つまり見せかけの姿を示しているにすぎず、きっかけさえあれば誰でも「悪」の本性を露呈するのだ。

ところが『俺ガイル』では「荀子的」な展開にも留保を付けるかのように、鶴見留美の「他者からは見えにくい意思と行動」が語られています。まさしく「鋳型」を拒否するかのように。

話を戻せば、比企谷八幡曰く『こころ』は人間不信の物語でしたし、一片の救いもないハッピーエンドの否定形でした。

また、葉山隼人比企谷八幡の対立は、性善説性悪説に代表できますが、さらに言えば「理想と現実」の図式だったと整理できます。先ほど現実が理想を擦り切らした形で前景化していると記しました。このケースでは葉山隼人的ロマンが、比企谷八幡の独白による孤独への無理解といったリアリスティックに抑圧されていく描写があり、「みんな」による理想を押し下げたグロテスクな現実的なシーンという形に集約されましたが、しかし鶴見留美は完全に「荀子的」や「現実」に乗っかったわけではありませんでした。葉山隼人が抱いたような「理想」でもなく、比企谷八幡が想定していた「現実」でもなく、別の「理想と現実」を立ち上げたと言えます。その文脈には明快な「理想と現実」を宙吊りにするような態度が反映されており、『こころ』にあるような「鋳型」や「荀子的」に振り切られないようにするための「理想と現実」に対する程度問題としての提示が無意識的にあったと言えるのではないでしょうか。それこそ「みんな」のように単純ではないとする粘りのような文脈です。

このような単純に分けられない程度としての「理想と現実」をどのように解釈すればいいのか。福田恆存『私の幸福論』のあとがきを引用します。

 

理想とは、それに現実を一致させるためにあるのではなく、それを支点として現実が回転し活動するためにあるのです。また、消極的にいえば、理想とは、現実が混乱しないための枠であり、ものさしであります。

私の幸福論 (ちくま文庫)

私の幸福論 (ちくま文庫)

  • 作者:福田 恒存
  • 発売日: 1998/09/01
  • メディア: 文庫
 

 

福田恆存が記したように「理想と現実を一致させる」ものではなく、「理想」を起点として「現実」を駆動させるものだとするならば、例えば性善説性悪説も完全に分けられないとする円環的な態度は、まさに鶴見留美の行動の反映と言えるでしょう。葉山隼人も、比企谷八幡も互いに「一致しない」ことで対立し、その前提には「一致させる」ことの宿命があり、その態度は前提への懐疑がありませんでした。

鶴見留美の行動の結果は「一致させるもの」としての前提を捉え、「荀子的」でもない「孟子的」とも言えない宙吊りした別の「現実」を「回転」させたところにあります。この鶴見留美の留保的回転によって、本来ならば交わらなかったであろう葉山隼人比企谷八幡を正しく認識し、同時に比企谷八幡葉山隼人を認識しました。「あちら」としての葉山隼人性善説)と「こちら」の比企谷八幡性悪説)の交差は、どちらにも視線が双方的・同期的に向けられている。

鶴見留美の行動が『こころ』に宿る「荀子的」なものを留保したように、スクールカーストや「空気」が解体したように眼差しを配することで揺らぎを炙り出しています。「コミュニケーションに失敗」してしまう比企谷八幡を主人公に据えることは上下の境を壊した後で、通底にある「断続的なディスコミュニケーション」の観点から眺めるものです。

そんな比企谷八幡のやり方(性悪説)を認められないということで彼を認識した葉山隼人もまた優しい、理想だけではないことを匂わせています。スクールカースト上位も「キャラや空気」に飼い慣らされた画一的ではない。固有名としての個別的に具体的な存在であり、記号的ではないとする強い意思が垣間見えます。それ自体への無理解は「下から眺める他なかった」比企谷八幡も認識出来ていないことでした。従来ならば「彼岸」として追いやることで、「此岸」の「正しさ」を引き寄せる二項対立的に支えているロジックが構築されていましたが、「彼岸」が個別的に解体していく過程で具体化する。

互いの「分からなさ」、そして「分かりあえなさ」の共有は協調を働きかけても、根源的に共有できない「個人性」と言えます。同じ「みんな」、「空気」にあってもどこかしらズレていっている。例えば由比ヶ浜結衣葉山隼人のように差異として表れ、個別的に解体されていく。

 

新版 漱石論集成 (岩波現代文庫)

新版 漱石論集成 (岩波現代文庫)

  • 作者:柄谷 行人
  • 発売日: 2017/11/17
  • メディア: 文庫
 

 

『こころ』というタイトルは皮肉なものでして、これはけっして「心」の中を覗こうとしているのではないのです。いや、覗いたとしてもそこに何もないということ、われわれが何かをやってしまうのは「心」からではなくて、他者との関係によってである、ということがいわれているのです。したがって、そこにはどう考えても埋まらない空虚があります。 「漱石の多様性」

柄谷行人は意識や欲望が他者を媒介した結果から生じる「遅れ」のアプローチから「歴史」を問い直していますが、ここで重要なのは「他者との関係によって生じる空虚さ」です。例えば「先生とK」の関係性について、赤木昭夫石原千秋は「嫉妬」を指摘していますが、「自分の『嫉妬』が自分自身に理解できていないかもしれない」という「嫉妬を手掛かりにしか理解できない」とする他者との関係性にある暗い断絶は、柄谷行人が言及した「埋まらない空虚」でもありますし、葉山隼人比企谷八幡に対して過去を参照しながら認識して、なおそれを認めることはできない「埋まらなさ」に相似していると言えます。

その「空虚さ」は、他者との関係性によって再確認されることを要請するかのように突き付けます。

果たして比企谷八幡の行為は「分かって」貰えるかどうかという点に着目すれば、鶴見留美比企谷八幡を無視する「関係性の空虚な形」として決着します。鶴見留美を取り巻く関係性を解体してみせたことは、お世辞にも褒められた形ではなく、親切と暴力は両立するという「加害と被害の円環」でもありました。それが現時点で正しいかどうかは決められませんし、他者との関係性を破壊することで個人的な空白の林立が生じたと言えます。

しかし、雪ノ下雪乃はそんな比企谷八幡に対して、鶴見留美葉山隼人とは異なった視線を向けます。自身の過去が念頭にありながら「誰からも褒められなくても、一つくらい、いいことがあっても許されると思うわ」と語り、「褒められないが、報われてもいい」とする「報われなさ」というある種の空虚な共通認識を経て比企谷八幡雪ノ下雪乃の関係性は新たに展開されていきます。

そして葉山隼人比企谷八幡とは対照的な存在であり、「理想と現実」の摩擦の差異から「分かり合えない」という共有が「比企谷君とは仲よくできなかっただろうな」という「埋まらない心」に集約されています。たとえ比企谷八幡のようなやり方で「上手くやれた」としても、比企谷八幡とは「上手くやれなかった」とする「埋まりようがない空虚な距離感」は、双方向的な関係性として「正しい相互認識」から「分かり合えない」という共通認識へと踏み出していきます。

「共有できない」ということさえも共通認識として働いてしまうように、4巻では「解体と相互認識」といった再構築を経てなお「分かるが、分かり合えない」という絶対的な空虚さを見つめています。

 

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