おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(5)

高校2年生の一年間を丸々と描いたのが『俺ガイル』になりますが、もちろん高校生活は語られないだけでそれ以降の3年生、あるいはそれ以前の時間(1年生)があるにも関わらず、なぜ2年生という一年に物語を集約したのかはメタ的に読むならば、1年生時の比企谷八幡の事故の件と関係性の影響を作中で断片的に用いるためが一つにあるでしょう。事故の影響もあって「入学ぼっち」が確定した比企谷八幡の孤独がデフォルト化したことは語られない1年生時となりますが、それに伴って作中の開始時点での2年生時では孤独の耐性によるモノローグの豊穣性があるでしょうし、進路選択の岐路やイベントの数も来年の大学受験を見据えながらも、ある程度「青春」としてコミットできるモラトリアム的空間が常に担保されているのが2年生という時間になるでしょうか。

モラトリアムは、時間や空間を含むある種の「狭さ」が付き纏う概念だと僕は考えています。『俺ガイル』でいえば、「日常系」という「狭さ」――学校空間としての「狭さ」は時空間が複合的に絡むことで成立していると言えるでしょう。その「狭さ」は必然的にモラトリアムが抱える留保できる範囲内と重なるでしょうし、しかし同時に「終わらなさ」という意味でのモラトリアムの「閉塞感」も含有されているのが「狭さ」を平板に捉えることのできない要因――立体的な意味ともなっていくことが考えられます。

モラトリアムにおける「終わらなさ」は未成熟の問題と重なりますから、モラトリアムを甘受する/できる年齢が一般的にはティーンエイジャーであり(ライトノベルの主要読者層を意識して)、学生時代と言われる所以の一つですが、それには「狭い」箱庭的感覚を設えることが必要不可欠となります。まさしく学校空間は未成熟かつモラトリアムな時空間を温存することに適した箱庭的な「狭い」場所ですし、それを自然と許容しているともいえるでしょう。箱庭で育まれた自意識や体験は恰も「青春」の一ページを彩り、記憶や感情をときには美化して昇華する一方で仄暗い「夜」の価値観を肥大化させる。「昼」のような快楽的な記憶も、「夜」の孤独な内面としての記憶や自意識も等しく「青春」として刻まれ、アイデンティティを形成していきます。そのような「昼」と「夜」の差異に優劣はありませんし、「昼」と「夜」の二項対立を部分的に「脱構築」することが『俺ガイル』という作品の一つの魅力であると僕は考えていますが、ストレートに物語に目を向ければ比企谷八幡を通して「夜」を肯定するべくカウンターとして位置するようにして、「青春」の抱える欺瞞を告発するのが一つの目的として語られているのはこれまで見てきた通りです。

1巻から度々指摘されている「青春」に内包されている「虚構性」を指摘する行為は、ある意味ではモラトリアムであるからこそ価値を相対化したい欲求の表れとも言えるでしょうか。価値の留保をするのがモラトリアムという温存を要請することができる未成熟な箱庭であるならば、「青春」も同様に未成熟そのものであり、その青臭さが脱臭される前に美化されるであろう欺瞞に対する「正しさ」の表明を「夜」の視点から引き寄せているのが前期であると整理できます。その意味では「狭さ」の有効性があると言えるでしょうか。ある一定の自閉性があるからこそ、担保されているモラトリアム性が価値を留保し続ける場として機能しているとも言えます。

しかし、その「狭さ」に位置している――時空間を内面化しているからこそモラトリアムが内包する欺瞞をも「青春」同様に許容できないのが比企谷八幡です。潔癖的な「正しさ」の自意識に囚われるようにして、後期につれて関係性の「停滞や温存」を欺瞞として捉える。欺瞞や矛盾を許容できないのは潔癖的でありながら、カウンターとして「正しさ」を引き寄せたい純粋さの表れでもありますし、それ故に「先送りの病」=モラトリアムへの抵抗だと考えられるでしょうか。「先送りの病」は成熟を巡る問題です。モラトリアムの箱庭で安住すること、未成熟であることは不可分でありますが、そこから如何にして成熟を果たしていくべきかという問題の関係性を説くことが一つ挙げられるでしょう。

モラトリアムは閉鎖的な箱庭です。その心地よさから微睡みたくなってしまう甘美な時空間です。そのような価値観に対して抵抗するのはモラトリアムを最終的には許容しないための「成熟を巡る責任」があるからでしょう。「成熟」の困難さは戦後の精神性と深く結びついていますし、「先送り」とはまさしく「モラトリアムの延長・終わらなさ」という意味での素直に成熟できない問題となります。言ってしまえば戦後、昭和に示された成熟モデルが恰も普遍的のように定型化される一方で、平成という時間はその昭和なるものが機能不全と化したことを確認していくための喪失の期間だった――そのように整理できるでしょう。

僕はモラトリアムを「狭さ」として表現しましたが、一定の空白や部分的な時空間をモラトリアムとするならば、「成熟できなさ」という問題をまさに「先送り」してきたのが平成というモラトリアムであり、その負債に対する未成熟な「清算」がループ(決断の延長としての先送り=モラトリアムの精神性)するかのように比例的に現実として負荷となっていったことの確認作業であったのではないでしょうか。モラトリアムの温存は「成熟できなさ」の態度表明であり、しかしそれでも未成熟のまま微温的に彷徨うしかないモデルの不透明性を突き付けるものではないか。すると、モラトリアムの温存とは「成熟の困難さ」に託けた欺瞞であるとするように『俺ガイル』の自意識のループ構造=モラトリアム性に重ねて読むことはできるでしょうし、モラトリアムにおける自縄自縛な「狭い」自意識において「成熟の可能性/不可能性」を見つめていくことも可能でしょう。

ここで、本論考の重要な概念として「先送りの病」を説明したいと思います。

具体的には後期の問題に触れる際に頻出するものとなるでしょうが、モラトリアムにおける「その場しのぎの相対的な留保」を意味します。問題の解決ではなく、解消をする「狭い」「先送り」がまさしく該当するでしょう。もちろん「その場しのぎ」であってもやらないよりかは幾分かマシという事例や「その場しのぎ」であっても救われるものはあるという前提に立つとしても、その問題は恰も物語上では「その場」のように一過性的なものに映りますが、相対化するようにしてズラしていても根本的には解決されないものもあります。

「先送りの病」は、その意味では「成熟できなさ」や「モラトリアムにおける決断のリソースの貧しさ」を示すと言えるでしょう。

そもそも奉仕部は「依頼」という形式による能動的なデタッチメントから、「その場しのぎ」に通じる瞬間的な立ち振る舞いとしてコミットしていく問題のズラし=「解消」が、物語における一定のカタルシスを生んだように見えるのが前期の特徴であり、比企谷八幡の斜め下の「解消」方法がアンチ・ヒーロー的な造形を生み出したと言えるでしょう。

しかし、後期ではアンチ・ヒーロー性は空転していきます。「解消」という名の相対化によって「先送り」にしてきた結果、「清算」という形で負債、停滞感を如実に形成していくのが特徴となります。それは根本の問題を「解決」するのではなく「解消」という目的性のズラしによって、棚上げするようにして「先送り」にしてきたモラトリアム的な空白を示していると言えるでしょう。もちろん、根本の解決ではないのですから問題は依然として残滓として存在し続ける。モラトリアムにおける「その場しのぎ」でしかないために、その後の「清算」は物語の都合上、一旦は不可視になっているように錯覚された形でそのまま「先送り」にされていきますが、あくまでも形をズラしたまま根本は変わらないかのように。ある種の「負債」として残り続けるのが後期では描かれていきます。

奉仕部は「依頼」を受けて「イマ・ココ」にコミットすることだけでいい、という受動的な論理によって根本の「先送り」した結果――もちろんコミュニケーションに失敗しているからこそ「先送り」が生じていくわけですが――後期では反復(ループ的に負荷)するように「まちがった」ままでは破綻=欺瞞が暴かれ、潔癖的に自己矛盾が生じるような構成となっています。問題は一過性ではなければ、モラトリアムも価値の一定の留保でしかない。「先送り」にした後も、その先も連綿と問題はズラしたまま存在していたことを知る比企谷八幡たちは「先送りにした自分たちの都合」というモラトリアム性を自覚していくことになります。その意味では物語の都合上で錯覚的にズラされた「清算」を払うのが前期から後期への橋渡しであると考えられるでしょう。リソースや選択肢が無いという状況から、それでも「その場」として選択するしかなかった比企谷八幡たちの決断が「先送り」ではない「その場しのぎ」にはならないようにするための「責任」がモラトリアムにおける「成熟」を巡る問題――「その場しのぎ」ではないモラトリアムとは異なる時空間からの応答としての選択=決断が立つことになりますが、後ほど追ってみていきましょう。

ここまでの話を整理すれば、「先送り」は半ば隠蔽されるように物語上の「解消」というカタルシスを生み出す一方で、根本の「解決」には至ってない温存的な態度でありました。モラトリアムのように。未成熟であること、モラトリアムにおける「責任」を強く自覚していく物語になっていきます。モラトリアムな一過性の問題として恰も処理されたかのような錯覚を効果的に用いたのが前期であるならば、後期では一過性ではないようにして「清算」という形式でもって反復的(ループ=モラトリアム性)に抜け出せない「まちがい」の構造の温存と展開を描くことで、「終わらなさ」や「成熟」に対する「責任」をモラトリアム上で「清算」してみせようとした、と言えるでしょうか。

先回りする形になってしましますが、14巻に通じる話として、疑い続けていかなくてはなりません。「その場しのぎ」的に、イマ・ココのみに焦点を当ててコンテクストを切断することはできないように。コンテクストを適宜参照して、連続的に問いを立てて「責任」を自覚していくことが弁証法的に「先送りの病」への処方箋になり得る。「先送りの病」はデタッチメントな「その場しのぎ」であるから機能してしまうものです。「責任」を引き受けないからこそ、つまり留保できる余白があるためにモラトリアムの「狭さ」は開かれているとも言えるでしょうし、だからこそ「成熟できない」ことへのエクスキューズとして働く。一方で、ある種の後ろめたさや負荷としても表れてしまう。一つに「成熟できなさ」にあるモラトリアム性の肥大化と呼べるでしょうし、成熟モデルの不透明性にある「不自由な自由」と言えるような逆説的な閉塞感――「狭さ」が「先送り」を半ば必然的に要請しているでしょう。このようなモラトリアム性は「成熟」や「責任」の問題と不可分であり、それを引き受けることができないからこそ「先送り」にして相対的にズラす。そのような錯覚めいた相対化が反動として絶対(「本物」)への飽くなき欲望として立ち上がることも見逃せませんが、「先送りの病」は比企谷八幡の「解消」にみられる物語上の相対的な留保(モラトリアム)=欺瞞であり、潔癖的に拒絶しているにも関わらず「青春」をまるで担保するモラトリアムの自己欺瞞と重なっていくことは必然だったのでしょう。

後期では比企谷八幡の選択によって、その反映として他のキャラクターの立ち回り方や振る舞いに表れた箱庭的関係性の温存・停滞感・依存が表出したとも考えられますが、それはズラしてきた「その場しのぎ」の集積の形(モザイク)です。歪さを甘受するかのようにして「先送りの病」によって、物語として錯覚的に半ば隠蔽されていたものが露見するのが後期だと言っていいかもしれません。そのような「先送り」にしてきた破綻的な「清算」に対して、「潔癖」である比企谷八幡が見届けなければならなくなる。自己矛盾を抱えるようにして、モラトリアムにおけるグロテスクな結果として受け取るほかありません。

「先送り」にした空白や相対化について、いかに「主体的」に「責任」を引き受けていくのか/引き受けられるのかという問題の所在から、モラトリアムと「成熟できない」精神性が結びつていきます。そのような「狭い」空白が一年に集約されている物語ではないでしょうか。ですから、『俺ガイル』で描かれた「先送りの病」に対する一つの決断=責任は、「狭さ」から生じた倫理的な応答と言えるかもしれません。

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