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『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている12巻』 比企谷八幡のジレンマ

futbolman.hatenablog.com

本記事は上記のリンク記事の補論として書かれたものである。

その前提で展開されていくものであるから、ご容赦いただきたい。

12巻の終盤にて、本作のトリックスターであり、唯一の贔屓目ではないバランサーとして、また外部の視点として機能している雪ノ下陽乃によって、比企谷八幡由比ヶ浜結衣雪ノ下雪乃たちの関係性を「共依存」と切り捨てられた。

12巻のハイライトだと考える。

陽乃の立ち位置は、ある意味では竹宮ゆゆことらドラ!』の川嶋亜美的だと思った。

 

とらドラ!1 (電撃文庫)

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とらドラ!』で展開されていた疑似家族と本当の家族の関係性、家族への絆を唯一として絶対的とせずに、他の共同体の可能性を模索しつつ、疑似家族も本物の絆になり得る未来を描き切った。

その過程で、完成されてしまっていた主人公たちの疑似家族に入り込む余地が無く、物語の舞台にコミットできず、上がれないまま終幕せざるを得なかった川嶋亜美の視点は、切ないほどに徹底的に諦念的で外部的であった。

陽乃は、彼女が切り捨てた八幡たちの関係性に羨望したり、嫉妬したりといった動機で「共依存」という言葉を選択したわけではなくても(諦念による取捨選択してきた過去を匂わす程度)、八幡たちのコミュニティを外から観ていることで吐くことが出来る唯一の存在だろう。

自分よりも優秀で有能な人間に承認≠信頼されることって気持ちいいでしょ?という話として。

「ちゃんと言ったじゃない、信頼なんかじゃないって」

陽乃さんは楽しげにくすくすと笑っていたかと思うと、その笑みを淫靡に歪め、さらに続けた。

「あの子に頼られるのって気持ちいいでしょ?」

 

ボッチを自称する八幡は、これまで如何なるコミュニティでも承認されることなく自己完結してきた人間であるから、雪乃をはじめとする恋愛の狭間で揺れる共同体による相互承認がある現在に居心地の良さを感じている。

雪乃のみならず、陽乃や葉山といった優秀な人間に承認され、教室の片隅で孤独で生きていた八幡の生活する空間は確実に拡張されていき、かつては自己完結していた自己肯定が他者を通じて更に味付けされていく。

元々ボッチだった八幡は、今ではボッチとはとても言えない状況である。

三角関係めいた結衣と雪乃の共同体、スクールカースト上位の葉山たちとの交流、カーストから解放されている戸塚との友情など、教室の片隅と自宅で完結していた八幡の世界は確実に広がっているように描かれている。

最早ボッチではない。

それによって、ボッチだからこその八幡の斜め下/上の解決方法といった屈託が揺らいでいるわけだ。

気付いているけれども、気付かないフリをして鈍感になって先延ばしにしている八幡たち。

それを見越した上で陽乃はわざわざ出しゃばって「共依存」と言い放った。

ここで疑問がある。

果たして「共依存めいた関係性が悪いのか」という問題だ。

依存状態というのは自覚症状が無いからこそ、他者性のフィルターを通して勧告されるものだとするならば、陽乃の存在意義はまさにこのセリフのためだったと考えても過大ではないとすら思えるが、一般論で言うならばナアナアな関係性も悪くないのではないだろうか。

学校こそが世界そのものである学生にとって、学校という空間から外に出ることで確かに関係性が解消されることはある。

その代表的なイベントが進路選択と卒業だ。

八幡たちは高校2年生であり、進路選択が現実的な射程に入ってきている。

しかし、学校や進路が別々になったからといって全ての関係性がクリアになるわけでもリセットになるわけでもない。

当たり前のことだ。

ある程度の清算があるにしても、変わらずに残り続けるものもあるだろう。

わざわざ高校卒業や進路選択で必ず決断しないといけないわけでもない。

卒業以降、つまり大学進学などで先延ばしにしても構わない問題ではないだろうか。

学校という世界から解放されて、各々の進路を選択していくのは当然であり、だからといってそれがイコール締切というわけでもない。

決断の先延ばし、保留が必ずしも悪いことではないだろう。

西尾維新物語シリーズ』では、「逃げる」ためには問題を前向きに捉える必要性を説いた。

「逃げる」ためには直視しないといけない。ただ単純に目を逸らすのは「逃げる」ではなく、後ろ向きな態度であると表現している。

陽乃によって「共依存」といった依存状態を自覚していくしかなくなった八幡たちが、問いの設定に対して、恐らく「逃げる」という選択をしないのが『俺ガイル』の作者でもある渡航の決断になっていくと考える。

何故ならば、八幡の「本物が欲しい」発言がフックとしてあるからだ。

改めて12巻でも、それ以前でも小町との関係性は対比的に描かれていることが分かる。小町は八幡の妹であり、絶対的な「家族」だ。

八幡は、お兄ちゃんとして小町の成長を嬉しく思いながらも、徐々に変化していく小町を眺めている。

家族の関係性はずっとあり続けるものとして、小町との関係は年齢や環境によって相対的な変化があるにしても「家族」という形態は変化しないからだろう。

つまり、八幡のいう「本物」の関係性は、小町と築いたような関係に近い。

「家族」のように「本物」で変わらないであろう関係。

だからこそ疑似家族や共同体は、それへの返答になるだろう。

現在、結衣や雪乃たちとの関係性は限りなく近接しているかもしれないが、まだ最終防衛ラインが2本存在している。

それが八幡のジレンマとなっているから恐ろしい。

一つは男女の友情からの恋愛感情への展開。

もう一つは八幡のお兄ちゃん気質問題である。

両者の線はどちらも交わるもので、要は八幡が恋愛の機微に敏感でありながらも過去のトラウマからの教訓や防衛機能として一線を越えないようにしている。

本来、聡いはずの八幡が〝鈍く〟なっているのは確信的にお兄ちゃん気質による承認状態だ。

それは一色いろは達に看破され、八幡の無自覚的な態度が暴露されたのも12巻だった。

小町との関係性のようにクローズドでドメスティックな家族的なものに対して、オープンな「本物」が欲しいと八幡は願いながらも、ナチュラルなお兄ちゃん気質で線を引いてしまっている。

これまで疑似家族が家族の関係性を超越する、或いは乗り越えた作品は多数描かれている。

『万引き家族』を観た人間と未見の人間が語る - TwitCasting

『万引き家族』の続き - TwitCasting

『俺ガイル』は「友達探し」がテーマの一つとしてある。

庵田定夏ココロコネクト』が、八幡のいう本物への近接として共同体としての強度が理想的であるならば、八幡が抱える自己犠牲精神、自分が傷つくことも厭わない環境への応対は、「みんな」のために奔走する主体性=「みんな」に寄り掛かることでしか表現できない「自分」や「思想」の無さを自覚していった八重樫太一や『物語シリーズ』の阿良々木暦などが抱える自己肯定/自己否定などの自己批評問題そのものに直結している。

 

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。6 (ガガガ文庫)

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本物が欲しい八幡のお兄ちゃん気質問題は、小町と接するようにと同じく、つまり疑似家族的な態度であるから、ある意味八幡なりのナチュラルな「本物」的への姿勢とも取れる。

しかし、その態度が明確に停滞を生んでしまっているのも事実だろう。

だって「本物」が欲しいならば「家族ごっこ」ではダメでしょ?

と八幡は考えるだろうし、陽乃はその関係性への態度を「共依存」と切ったのだから。

しかし一般論でいえば、保留や先延ばしもアリだし、家族ごっこもアリ。

ただ、八幡自身がそういった欺瞞や陶酔を嫌い、「本物」=変わらない純粋さを引き換えに欲しているために「逃げる」ための道を閉ざし、袋小路に突入してしまっているジレンマがある。

八幡自身の欲求や願いが、八幡自身の性質や問題によってアンバランスに整理され、居心地の良さを感じていた空間が気持ち悪いもの=停滞だと自覚的にならざるを得なかったのが陽乃による「共依存」発言だった。

 

学校=世界であり、不器用な彼らは世界の外を知らない。

特に八幡と雪乃は、学校=世界の中での関係性に終始してきた経験があるからこそ、学校の外でも関係は続くという可能性を肌感覚で体験してこなかった。

卒業したからと言って完全に終わるものでもなく、世界=学校の外にも世界はあるのに関わらず、閉じた空間で生活している彼らは外を知り得ない、分からない。

それを知覚するためには、まるで学校こそが世界そのものであるという錯覚(確かに10代にとっては…)に対して、ツール(SNSなど)や経験や能力や資格によっていくらでも外へ接続することで可能になる。

例えば、『宇宙よりも遠い場所』は〝南極セラピー〟という精神上の名目のもと手段としてのフィジカルが機能(有効性はサン=テグジュペリ的)し、学校=世界の外へ展開されていく南極=非日常が日常化することで、「ここ」の否定から始まった「ここではない何処か」への逃避や選択は、最終的には「そこ」も「ここ」になるという、日常はどこでもどこまでも日常であること、学校の中で完結していたならば友達ではなかった彼女たちが学校=世界の外で友達になっていくまでが描かれた。

また「友達探し」でいえば、西尾維新の『物語シリーズ』の阿良々木暦は「友達を作ると人間強度が落ちる」といった理由で孤独であるところから始まる。

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孤独を肯定的に捉えながらも、友達、承認から他者を求めていく流れに対して、ボッチはアンチテーゼとして機能しやすい。そこから他者に触れることで孤独としての渇きを本質的に知ることになる。

僕は友達が少ない (MF文庫J)

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再三述べているように、別に学校の外でも終わらない関係性は当然ある。

その当然という前提を八幡は、体感していないので現在持っている、掴みかけている関係性を純情に「本物」へ昇華していくことで変わらないまま保存したい願いを不器用に切実にジレンマ的に描いた。

 『俺ガイル』は「本物」発言によって明確に線を引いた。

自意識として高校生活での決着と擬似家族や共同体に対して。

「偽物」=疑似家族や共同体=友愛や弱いつながりが、「本物」=家族めいた強い関係に成り代わるものとして、どのように提示されていくのか。

 

これまで学園モノといえば、高校生の部室や教室が定番だった。

つまり学校の中で完結していた。

しかし、学生はなにも高校生までではない。

外と接続しやすいキャンパスライフも立派な学園モノでもあり、大学生モノへと展開していった竹宮ゆゆこ『ゴールデンタイム』や伊坂幸太郎『砂漠』などがある。

 

 

砂漠 (実業之日本社文庫)

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大学生になっても関係性がリセットしないものは当然ある。

物理的距離が生じても変わらないものは当然ある。

これらは青春モノとしてのルサンチマンや自意識の気持ち悪さを自覚的に描きながら、「ありえたかもしれない青春の可能性」を提示している。コミュニティの中では気付き難い青春模様や互恵関係を調整的に表現し、素晴らしき青春にどれだけコミットできるかどうかは、その共同体に居ないといけないと『砂漠』で触れられている可能性は、誰もが選べて入れる自由である。

その青春に直面するためには「そこ」に居ないといけない。

「そこ」を選ぶことは自由であるし、「そこ」に居ることも自由だ。

今、「そこ」に居ることの価値基準は高い。

「そこ」に居るための回路は誰もが持てるツールはあるし、機会もある。

あとはどれだけ選択し、「そこ」で自由を謳歌できるかどうかだ。

八幡が願う「本物」、つまり家族のような関係性を八幡自身のお兄ちゃん気質問題と鈍感になる=空気を読むことで停滞を生んでいる現状において、袋小路の外へ出る必要性がある。

かつてボッチだった故に自己完結するしか手段が無かった八幡には、今は雪乃や結衣たちがいる。

彼女たちとの居心地の良さとバランサーとしての機能が、八幡の屈託を揺らして嫌っていた自己欺瞞から「逃げる」ではなく目を逸らす態度にNOを突き付けたのが12巻だとすると、「そこ」に居ることを選択した八幡たちが、袋小路の壁を破るための協力や協調が今後描かれていくことだろう。 

上記の八幡のジレンマや問題を抱えたまま前進させないといけない作者の渡航は滅茶苦茶大変に違いない。自身が設定した問いに対して、生みの苦しみと真っ向から立ち向かわないといけない。

お兄ちゃん気質による線引きと友愛=疑似家族めいた共同体に確かなラインを築いてしまった、「本物」=家族めいた関係性までをきちんと捉えないといけないのだから。

これまで提示してきた、家族めいた関係を乗り越えていくだろう不確かな八幡、結衣、雪乃たちの共同体を、現状では「共依存」と断定した功罪と八幡自身のジレンマをセットで清算していくことになるだろう。

自身で設定した欲求と、自身が持ちうる関係と「そこ」の環境への整合性をどれだけ表現していくのか。

とても大変な作業だ。

修羅の道といってもいいのではないだろうか。

どのような態度が描かれていくのか。読者としては楽しみに待つしかない。

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