おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

ブログって

時々ブログを書いていて思うことは、別にブログという形態に拘らなくてもいいんだろうなと。

書くのが滅茶苦茶好きだとしてもだ。

ツイッターよりも長い文章を書かないと内容が詰められないからブログをしているだけで、他の表現方法があれば迷わずそちらに移るんだろうなと。

それが最近始めた『おおたまラジオ』だったりするのだけど。

現状、音声配信はどうしても固定時間を奪うものなので、それだけの時間を費やすだけの価値を高められるのかが重要だが前途多難。

喋りも稚拙であるし。

テキストならば、好きなタイミングで好きなペースで進められるし、個別で掛かる時間も違う。

 

まー要するに作品やコンテンツをインプットして、それをアウトプットできる環境があれば私自身の欲望は容易く満たされるわけだ。

電車などの移動時間や隙間時間に読書したり、映画なりアニメなりテレビを観て余暇を楽しむ。

それを自分なりにアウトプットして、他の信頼している方々の意見を参考にするサイクルで結構満ち足りてしまう。

常々、誰が何を言うかよりも、何を言うのかが大事と思うが、情報が氾濫してしまっている現代で常に半匿名性の内容の精査をするだけの時間は誰しも捻出できない。

そうなると誰もが、誰が発信しているかでインスタントに判断して首肯するかどうかはクリック一つでOKみたいな。

結構きな臭い感じだが仕方ない。

自分で思考して判断する時間さえもショートカットできるほどの資料が溢れているし、専門家の言葉に耳を傾ければ「そんなもんか」となりやすいし。

どれだけ情報をキャッチできるか、どれだけ情報を捨てられるかの整理整頓が上手い人が、<中>のコンテクストや情報の<外>も含めたリテラシー能力を高めて生活しやすくなっている。

私自身は自分で調べて考える方が好きだから、この辺の付き合い方やら棲み分けは不器用だ。

父親から「人に訊く前に先ずは自分で調べろ」という教育を施されたために、スペシャリストの棲み分けが大事だと感じながらも習慣化されている弊害でもある。

そんな時間と労力の使い方が下手で頑固な私でさえも、やはり信頼している/参考にしている人は勿論いて、その辺はおおたまラジオ第1回の『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』で一部喋ったが、ブログなりラジオなり友人たちとコンテンツに触れてアウトプットして共有する時間は楽しい。

自分では表現できなかったであろう凄いテキストだったり、自分には無い着眼点や審美眼や引用されているリソースからコンテンツを通した2次的情報まで自分で食指を伸ばしていく時とかも充実度を図る上での大事なベンチマークだ。

正直、色々とシンドイ時もある。

コンテンツに触れてらんない時もある。

ただ、インプットからのアウトプットが分かり易い充実のパラメータであるから。

インプットが無いとそもそもアウトプットは出来ないので最早ライフサイクルとして意識して、大変な時でもインプットはするように心がけている。

逃避もあるけど、精神衛生上、インプットからアウトプットしていない方が負荷が掛かることもあって。

インプットしない方が負担が大きい人生だ。

 

それらを語り合って共有することは楽しいという話。

印象的な思い出として。

高校卒業以降、20代前半まで独り暮らし始めた高校時代の友人宅に泊まり込んでアニメや漫画を読んだのは20代の輝かしい青春の1ページだ。

一年に3~4回の頻度、つまり1クールに一度くらいに複数のオタク友達と雪崩れ込んで、近場のスーパーで酒や鍋などの食材を買い込んで徹夜鑑賞会をしていた。

完全にオタク合宿だった。

そこで触れたからこそ『ガンダムUC』や『魔法少女まどかマギカ』は私にとっても大事な作品になったし、摂取しないまま終わっていたかもしれない作品(『よつばと』とか)もあっただろう。

『新劇場版ヱヴァ』やノイタミナ作品について語ったり(当時は『フラクタル』や『放浪息子』だった)とか、『蒼穹のファフナー』などのロボットアニメもそん時だったか。

当時のジャンプやサンデーやマガジンの連載作品についても色々と語ったのもこの頃がピークだったか。

しかし、今となっては彼らとは就職や進路の関係で疎遠になっている。

一部を除いて改めて作品を摂取したからといって彼らに連絡することも無い。

ロボットアニメを観ても、今更彼らと話すことも無い。

彼らはこのブログやおおたまラジオの事も知らない。

でも、またいつか彼らと語りたい。

だからこのブログが彼らに伝わるくらいバズれば…とかは思っていなくて。

ブログというのはそもそも自意識過剰な自己紹介めいているし、名刺の一つと言っても差し支えないだろう。

このブログなりを紹介すれば事足りるが、それはあくまでも私からの矢印しか向いていない一方的な承認でしかなくて。

確かに彼らの承認は欲しいけれども、それよりも彼らの意見や情報こそに価値があると思っている。

相互関係だから、語り合うからこそ満たされる空間だった。

リアルであのような空間を持てていたのが素晴らしいことだったわけで。

今となってはネットで「そこ」を見付けることは容易いだろうし、「そこ」に入るためのフットワークなんて誰もが持っているだろう。

私としては「あそこ」を体験した身なので、結局オフラインまで持っていった関係が物を言うんだろうと思うが。

このブログやらラジオやらインターネット万歳だからこそ、ターゲット層が全く設定されていない傾向のテキスト群が、顔の見えない「みんな」ではなく誰かに向けて刺さるといいなという無謀さ加減が性に合っているし、現状はこの形でのアウトプットが自己充足的に気持ちいい。

ブログに初めて触れたのが2007年。

それから転々と住処を変えてしぶとく縋っている。

プラットフォームの開発や更新があって随分ブログ村の空気は変わったけれども。

これだけ情報が溢れて、短文で済ませた方が更に良くなってきている時代で、LINEのように短い遣り取りで集中的に連続的に行えるツールがマッチしている時代で、わざわざ長文仕様のブログをやることとは。

とはいっても、まだ当面は辞められそうにない。

アウトプットする場を模索しながら。

futbolman.hatenablog.com

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