おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(3)

2巻では川崎沙希の登場もあり、ヒロイン候補の拡張が行われていきます。作中のハーレム展開=マルチヒロインとするならば、1巻から登場している戸塚彩加が本編中でもネタ的にジェンダーに配慮した「ヒロイン化」の描写があり、平塚静も同様にエイジズムに対するアイロニカルなネタとして描かれていくといった多様な意味での拡張化の一方で、前期から後期にかけて奉仕部内を主題としたミクロな「狭い」関係性の密度が増していくのが特徴的でしょうか。

シリーズを重ねていく毎に、比企谷八幡の周りにはキャラが続々と増えていきます。それが意味するのは彼がもはや「一人ぼっち」ではないことを如実に示すものですが(その展開としてミニマムな後期があります)、イコール奉仕部が拡大するわけではありません。あくまでも奉仕部のメインは比企谷八幡たちの3人です。

「依頼」という受動的形式を持ち込むために彼らに関わるキャラが増えていくことを示していますが、「部活を一緒にやる」という奉仕部内のプレイヤーを作る目的ではない。もちろん「みんな」で依頼を遂行していくことはあるにしても、「常にみんな一緒」でといった同調性・接続性から、メインプレイヤーの固定的な部活への加入を図る物語とは違い、あくまでも奉仕部のミニマムな関係性に焦点を絞るようにして絶対化しながら、相対的に周りのキャラとの流動的な関係を描く群像劇的要素も後期にあるにしても「依頼」を通した3人の関係性の移ろいといった「まちがえ=脱臼としてのミクロな蓄積」を語り得るためには、部室内(奉仕部)を固定的にすることで、ヒロイン候補の拡張化に対してある種の「狭さ」からの応答、最終的なマルチヒロインへの決着があるとも言えます。

僕は「狭さ」が『俺ガイル』の鍵概念だと考えています。この論考では、既に記したように江藤淳の「サブカルチャー」に対する応答を目的の一つとしていますが、例えば上記のような奉仕部内という関係性の「狭さ」、学園青春モノという「日常系」の「狭さ」、またスクールカーストの融解した際の「狭さ」、比企谷八幡の精神性が持つ孤独による「狭さ」、不一致性を誘発する遠近感による「狭さ」、モラトリアム・「夕の文学」といった部分性の「狭さ」、現実に対して非対称的に言葉が不足してしまう「狭さ」と対抗言論としての文学性、といったように「狭さ」が、自然と空間的・時間的な意味を持つことで、どのような効果・ニュアンスがあるのか。その「狭さ」を確認して論じていくこととなるでしょう。

 

2巻冒頭、書類の不備で職員室にて平塚静に怒られる1巻との反復があります。比企谷八幡の「変わらなさ」。安易な成長や変化への拒絶としての応答と見るべきでしょう。1巻の出会いや経験を通しても、すぐに反映されて変化はしないと主張するようにして。

やはり『俺ガイル』の魅力は一定の反復性に宿っていると考えられるでしょうか。孤独な内面としての比企谷八幡の語りへの没入感もその一つでしょうが、一定の反復性から抜け出せないジレンマ、あるいはモラトリアム的な判断停止・判断保留による時間的・空間的な「狭さ」に起因する衝突・葛藤とも整理できます。

もちろん『俺ガイル』という作品自体が前期と後期では相対的であり、入れ子構造的であるからこそ、「脱臼の蓄積」といった奉仕部内のミクロ/ミニマムな関係性を通した一定性・反復性から抜け出せない(「まちがえたくない」けども「まちがえてしまう」ことによるコミュニケーション/ディスコミュニケーションとして)モラトリアム的な「狭さ」に未成熟的に閉じ込められている印象を与えます。行き場のない閉塞感がある。

また、「狭さ」には「言葉の貧しさ」による認識の差異といった非対称性による距離感の不透明性に起因してしまう「分かり合えなさ」に表れる関係性・空間性も加わっていきます。例えば、由比ヶ浜結衣の好意や照れには、比企谷八幡は気づくことが出来ません。由比ヶ浜結衣の言葉と態度の差異を「現実そのまま」に受け取ることができないように。「言葉の世界」と「現実の世界」は相違的であり、認知バイアス的にも複雑かつ膨大なメタデータが絡んでくる情報量の飽和が過剰性を孕み、情報レベルの認識の非対称性を引き起こします。物語るという行為においてある種の恣意性・簡略化がなければ「現実」を「言葉」で語ることはできない。そのジレンマに囚われながらも「言葉」で貧しくとも過剰に物語るのが「文学」となるでしょうが、重要なのは、比企谷八幡の視点でしか物事は語られないということでしょう。由比ヶ浜結衣の具体的な気持ちは、彼女から詳細には語られない。あくまでも比企谷八幡目線による語りであり、その意味では由比ヶ浜結衣の「沈黙」に映る。そのこと自体が非対称的でありますし、コミュニケーションの齟齬が生じても、主人公の卑屈さと孤独が「夜」としてアイロニカルに強調される「分かり合えない」という距離の「ままならなさ」につながります。

2巻は作中のキャラたちが高校2年生であることを意識せざるを得ない要素(進路選択・コミュニティ)を盛り込んだ構成となっています。比企谷八幡の冒頭のテキスト然り、進路選択における決断の狭間といったモラトリアムの転換・分岐点として。

また、友達というつながりの煩わしさは、スクールカーストから外れた孤独である比企谷八幡からみた一面的な視点ですが、共通言語をもってコミュニケーションのためのコミュニケーションによる同調性の維持を内輪(つながり)とする志向性は、友達を巡る人間関係の難しさや軋みを表すように描かれています。

2巻にある葉山隼人たちのグループのトラブルを処理することで、「リア充も面倒臭い」とするのは「夜」という観点よりも「健康的」な「昼」の力学が作用しているとも言えそうですが、比企谷八幡たち奉仕部も、後期にいずれ通る道として、既に形成されているコミュニティを先駆的に扱ったとも取れるでしょう。

そして、リア充ですらコミュニケーションの非同期性に困っていることを端的に示したのが2巻の一つの意義だと言えます。つながりたいのに、つながれないといった切断、非対称性、刹那的な非連続性から「本物」を巡る後期的文脈が浮上するとみるならば、葉山隼人比企谷八幡は「昼」も「夜」も融和した共振的な表象とみるべきでしょう。

2011年の作品ですから、携帯電話はメールでやり取りするのがメインとなっています。

比企谷八幡は、携帯電話を介したオンラインのつながりは過剰接続とみています。距離感を恰も直結させるかのような気楽さから、データによるやり取りの蓄積は友達との親密さの表れになるかどうか。それに対して否定の意思をみせ、携帯電話はいつでもつながれるからといっても「不完全」なコミュニケーションツールだと指摘します。過剰接続による同調性は、まさしくときには過剰となり、あるいは過少ともなる。取捨選択の決断を所持者に委ねられ、ボタンのオン/オフのようにインスタントにつながりは切断されますし、非同期的になる意味は対面とは異なる曖昧さを担保し続けていると言えるでしょう。携帯電話を介して現実的な身体的な距離をスルーできるようにしてつながることができても、インタラクティブに見える発信と受信は一方向的でしかなく、双方向性・同期生はつながった瞬間に立ち上がる錯覚めいたものです。そのようなインタラクティブ性が重要だとすると、非同期的な距離感はデバイス同士を短絡的につなげることで地理的距離を無視することはできても、結果的には関係性としての現実の距離を反映する身体の延長・拡張的なものには違いありません。

メールによるやり取りは、テキストと感情がしばしば一致しない。このような不一致性は、言葉ではそもそも伝わらないし、伝えきれない、受け取れない性格を示し、携帯電話のみならずコミュニケーション自体が「不完全」なものとしてあるだけで、2巻では携帯電話がコミュニケーションの負荷的原理を仮託された表象となっているに過ぎません。コミュニケーションの難しさはある種の「賭け」=「命がけの飛躍」です。相手に伝わるかどうかは分からない。「賭け」は「他者」との距離感の反映とも言えますが、携帯電話はその距離感を短絡的に錯覚的にみせることができる。携帯電話を介することで、つながりをつなぎとめる接続的同調性が、コミュニケーションのためのコミュニケーションを呼び込み、ある意味では友達の存在を記録するものですが、本当につながっているのかは疑問となり得る。本来的には非同期的であるのに、同期しているように思える過剰な読み込み、あるいは錯覚がオンラインとして短絡的に形成されることで距離感を喪失させる。

携帯電話をモチーフにコミュニケーションの不完全性の表象が描かれるように、葉山隼人の依頼はチェーンメールという匿名的悪意の拡散についての相談でした。

『俺ガイル』にある「みんな」という匿名的な描写は、6巻の敵の設定=「まちがい」以降、7巻における比企谷八幡への風当たりのシーン、生徒会選挙の際に比企谷八幡がでっちあげるSNSのアカウント(8巻)、相模南以外のスクールカーストの中間層を描かないことで「みんな」という有象無象を匿名的かつ無邪気な好奇心の悍ましさの反映として10巻などで用いられていますが、まさしく「みんな」はサイレントマジョリティ的であり、その「見えなさ」は奉仕部のミニマムな前景化から自然と背景として要請されていくものでしょう。

チェーンメールに話を戻しますが、悪意のある匿名的行為は発信者の顔の見えなさと悪意を向けられている対象の明確さという非対称的な権力関係があります。それでも葉山隼人は物事を丸く収束させたいとする穏当な相談を持ち掛けます。「みんな」と仲良く調和することを目的として。

他方で、雪ノ下雪乃は経験則から犯人の追及を絶対視するように解釈の齟齬があります。「空気」を読む立場と読まない立場の差異とも言えるでしょう。

チェーンメールのキッカケは、職場見学のグループ分けによるものとして推察されますが、コミュニティ、スクールカースト内のグループ争いは学校内ではなく、携帯電話を駆使して学校外の空間でもコミュニケーションを図りながら相互に牽制しようとする過剰性によって生じた弊害でもあると整理できます。あまりにも切実で「些細」なことです。

葉山隼人比企谷八幡からすれば「些細」な問題ですが、2人は立ち位置が異なっていても共通的な見解として一致しているのが皮肉なところでしょう。2人は見えている景色が違います。比企谷八幡は孤独的な「下位」によるコミュニティへの無理解。葉山隼人はそのままグループに居られる「上位」としての無自覚的な暴力性。2人は「上位・下位」の違いはありますが、人間関係を巡るポジション争いに「巻き込まれない」という一致性から、相互の差異の隔たりをみることができるでしょう。立ち位置によって、どのようにも受け取れてしまう。当事者にとっては「些細」ではなく重要なことでしょう。世間体や同調性、所属しているコミュニティでのポジションが変化することからの不安は、「下」の比企谷八幡と「上」の葉山隼人には「些細」かつ無関係であること自体がアイロニーとも言えるでしょう。

視点をどこに置いているかどうかの差異であり、葉山隼人が抱えている苦悩は2巻時点ではコミュニケーションとコミュニティの充実といった接続過剰な「昼」の産物のように描かれていますが、「夜」とも関係ないとは言い切れません。孤独な「夜」であろうとも他者と接続した際に軋轢に苛まれるのは同様です。

スクールカースト上位に君臨してしまう存在感を持つ葉山隼人には「分からない」。それは無自覚的な非対称性であり、暴力性です。「持つ者」の存在感(リーダー性・カリスマ性)が加害的になり得ることは雪ノ下雪乃が向けられてきた悪意と重なりますが、葉山隼人には向けられていないのが2人の差異でしょう。葉山隼人がいることで成立してしまうコミュニティの「空気」や人間関係は、葉山隼人が圧倒的であればある程に「明暗」を分けてしまう。人間関係が多いからこそ巻き込まれるリスクとしての友達描写ともいえるでしょうし、上位カーストでさえも「些細」なことに囚われていることを示している。

比企谷八幡が看破したように、葉山隼人のグループは葉山隼人が中心です。葉山隼人が「監督で、観客」であり、グループの蝶番として構成されている。そのことについて中心にいる葉山隼人は無自覚的ですが、「内」に構成されていない比企谷八幡は自然と「外」からみて非対称的かつ距離感のある孤独な語り手の立ち位置を担保しています。「外」による語りは、孤独であることが功を奏すような一人の肯定につながっていると言えるでしょう。1巻のテニス勝負のように。

 

「だから葉山は気づていないだけだ。傍から見てるとあいつら三人きりのときは全然仲良くない。分かりやすく言えばだな、あいつらに取っちゃ葉山は『友達』で、それ以外の奴は『友達の友達』なんだよ」(P114)

 

中心ゆえに引き起こした無自覚な暴力性と非対称性は、葉山隼人が「持つ者」としての存在によるものです。そのことで維持されるコミュニケーションとコミュニティの接続性・同調性に対して、「外」からみている比企谷八幡の語りを通すことで「リア充」と孤独との立ち位置を明示していますが、この距離感は後に実質的には無化されていくこととなります。

雪ノ下雪乃が目論んだ犯人を具体体に名指しする解決ではなくとも、結果的に犯人像は絞り込められました。ここで明らかなのは、スクールカースト上位に位置している「リア充」たちも苦悩しているという事実でしょう。下位に位置している「外」として比企谷八幡の生きづらさだけを取り扱うのではなく――題材としては平凡になるだろう――上位として羨むようなリア充さえも「青春」や「友情」に過剰に同調的に囚われている。そのような「青春」を彩るような過剰性こそ、比企谷八幡が「虚偽」として断罪したわけですが、しかし過剰であるがゆえに充実する実感もあることもまた事実でしょう。

比企谷八幡が提示した解決策は、葉山隼人をグループから外す中心の抹消でした。「中心の不在」によってグループを再構成させる。中心の無自覚な存在感が誘発させてしまった悪意を宙吊りにしてみせることで、「中心と周縁」の非対称性と差異の告発はアイロニーとなる。

そして、アイロニーを通じた別の距離の一致――比企谷八幡葉山隼人が明示された後にグループを再構成するのは自然な流れでしょう。「中心の不在」は比企谷八幡にも重なります。その立ち位置は、孤独的でありながら中心から脱臼するようにして、しかし語り手として中心を占めている。その逆説は「夜」として、また「一人」でいながらも「内」を読者と共感をもって形成する小説の「共同体」として機能している。正確には「中心の不在という中心性」といった逆説的なものですが、葉山隼人比企谷八幡の避けられない二項対立の無化による共通性・奇妙な一致性がパースペクティブに予見されているとも言えるでしょうか。「脱構築」的に二項対立のその先、その淡い(「狭さ」)から見えてくるものがあるとして。

前述の朝井リョウの「文学の健全化」たる所以も、リア充側の葛藤から普遍的な苦しみを――「夜」を「昼」のように転換させるようにして――抽出したことでしょう。その足掻きは「持つ者」として一面的には理解されているリア充が、結果的には「持たざる者」であったことを自覚していく内省やイニシエーションに尽きます。

やはり相対的な産物に過ぎない。リア充が存在するのは同時に非リアがいるためであり、誰もが同時的にリア充であったとしても、それでも段階的に相対的な差異は存在するでしょう。

この2巻ではリア充側のコミュニティにおける読み合いを推測的に描きながら、その中に入れない「外」に位置している比企谷八幡の視点だけが、ある種の客観性が担保されるかのような主観的な提案が物語の解になり易い結果を生みました。一人でいることの価値を示すかのようにして。

言葉と現実は常にズレています。非対称性、不一致性を纏ってしまう。その意味では『俺ガイル』は「他者論」と言えるでしょうか。思う通りにはいかない、ままならなさを担保し続ける「他者」とどのように向き合っていくか。

しばしば語り手と語られている内容の情報レベルがズレることで、秘密あるいはメタメッセージがパフォーマティブに内包されることに気付けないために比企谷八幡は「信頼できない語り手」として機能しますし、その「信頼できなさ」は未成熟に直結しているとも言えるでしょう。例えば、戸塚彩加とのやり取りを「叙述トリック」的としたのもそうですが、情報の非対称性による受け取れなさと纏めることが出来るでしょう。情報量が過剰で、あるいは過少で、そのままのメタメッセージを受け取ることはできないから、ある程度は恣意的に解釈するようにして察するほかない。

しかし、現実と言葉も非対称的ですから、態度と言葉と想いがそのまま一致して受け取れるかどうかも別問題となる。川崎沙希の件のように。川崎家の問題は金銭的なものでした。「学校と家」といったように世界はその2つに表象できる学生時代の身分から、学校領域内の問題で済むものではありません。後期につれて奉仕部に持ち掛けられる依頼は学校外から「家」に波及していくことになります。

他人の家の事情にどれだけ踏み込むことができるのか。川崎家パターンと雪ノ下家パターンが『俺ガイル』の代表的な「家問題」でしょうか。もちろん後者が前景化していくことになりますが、他人の家の事情にどれだけコミットでき、その「責任」を果たすことが可能なのか、といったように結果論的にいえば前者が相対的に位置していると考えられることもないでしょう。ここでは川崎家の問題を通して、家族という「一番近い他人」ですらコミュニケーションがズレてしまう現実、また他人が「家」に介入することの意味や責任を問う前哨戦のようにも考えられるでしょうか。

 

由比ヶ浜結衣とのすれ違いは「主観は主観でしかない」とするトートロジーに尽きます。安直な「青春ラブコメ」に落ち着かせないのは「まちがって」しまうからでしょう。

由比ヶ浜結衣の優しさを気遣いとして、主観的に、潔癖的に欺瞞や偽善といったように解釈して受け取ってしまう。捻じ曲げてしまう。これは比企谷八幡の主観によるズレであり、この物語の魅力である語り手の捻じれがそのまま素直に変換した結果です。彼のコンプレックスと経験則、未成熟な「信頼できない語り」が、由比ヶ浜結衣の優しさを歪曲してしまう。それ故に「まちがう」からこそ迂遠かつ非対称的なコミュニケーションとディスコミュニケーションの往還としての『俺ガイル』が成立する。

 

真実は残酷だというなら、きっと嘘は優しいのだろう。

だから、優しさは嘘だ。(P258)

 

いつだって期待して、いつも勘違いして、いつからか希望を持つのはやめた。

だから、いつまでも、優しい女の子は嫌いだ。(P260)

 

「外」に位置している比企谷八幡の距離を見失わせる、由比ヶ浜結衣の優しさは「内」の力学だと言えます。孤独な遠い距離にいる比企谷八幡を「内」に引き寄せようと距離を埋めるのは優しさであり、気遣いだと解釈します。そして、それはアイロニカルな経験則で言えば「嘘」であると。比企谷八幡なりのロジックです。だからこそ「分かってしまう」。経験的に他者を取り払ってしまう。

しかし、由比ヶ浜結衣の真意は分かりません。あくまでも比企谷八幡の主観的な語りによるアイロニーの前景化です。そこに由比ヶ浜結衣は居ません。その意味では彼女の「沈黙と不在」という非対称性のまますれ違ってしまっていることもアイロニカルに切断、脱臼している=「まちがっている」と言えるでしょう。コミュニケーションの「不完全性」による不一致な素直さが、比企谷八幡の経験を補強するようにしてしまうが故に二人の言葉は主観的に距離を宙吊りにして空回ってしまう。

ズレに気付かないのは、由比ヶ浜結衣の優しさの本質が比企谷八幡の主観の範囲外であり、経験にないからです。つまり、解釈と経験が一致しないからこそ非対称的に縺れが生じてしまう。比企谷八幡独我論的な「正しさ」が、過剰に、アイロニカルに自己防衛したところで齟齬は主観的なロジックでしかありません。その「正しき」歪みが「他者」を決めつけてしまう。孤独であるからこその「他者」なき人間理解でしかないことを示しています。

そのまますんなりと前進できない。まるで「変化」を退けるようにして。これまでの反復を浚うように「元来た道へ引き返す。」――アイロニカルな後退でしょう。

相互の距離の差異は、コミュニケーションの「不完全性」による転倒です。主観的には比企谷八幡なりの「正しさ」であり、それが一般的に「正しい」とすることができるかは別の話ですが、思い通りにいかないグロテスクな現実=「他者」としての不一致性に関しては、由比ヶ浜結衣比企谷八幡も共通的です。その解釈に差異と距離がある「ままならなさ」は、「他者」とのコミュニケーションにおける「賭け」の表裏でしょう。「賭け」を通した「交通」は不完全かつ非同期的な「他者」への距離・つながりが立ち上がります。短絡的につながりを持てるように錯覚できる携帯電話よりも生々しい現実的な隔たりがあるからこそ決定的にズレてしまう。「他者」や「現実」を錯覚してしまうからこそ生まれる孤独な理解による隔たりです。

 

 

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