おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

サブカルチャー化した文学から呼びかけられている――『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(2)

青春とは嘘であり、悪である。

 

1巻の冒頭にある比企谷八幡の自覚的なアイロニーは「青春」が醸し出してしまう欺瞞に込められています。「青春フィルター」を介することで、自己陶酔と自己欺瞞を正当化するリア充たちは「嘘であり、悪」であるから「正しく」ないとする。「リア充と非リア」の二項対立的な提示から翻って「青春」を謳歌していない者こそが「正しい」とする論理ですが、このアイロニカルな主張は卑屈な精神性が一人ぼっちゆえに他者との接触を介さないことから決して外に漏れ出ることはないようなものでした。語り手のなかで自己完結している論理とでも言えるでしょうか。そういった精神性がいかに共感、攪乱されていくかを追いかけていくのが比企谷八幡の語りで構成されている『俺ガイル』です。

冒頭の作文は最終巻との対比となっています。その「否定」から「否定を重ねて価値転倒する」までの迂遠な旅路が『俺ガイル』という物語だと整理できるでしょうか。

比企谷八幡の孤独体質の改善が平塚静からの「依頼」であり、受動的に奉仕部に投げ込まれます。

繰り広げられる雪ノ下雪乃とのやり取りは、安易な「部活とラブコメ」への期待を裏返すようなアイロニーと自己言及性であり、まさしくタイトルにあるように「まちがっている」ために成立していきます。美少女との出会いから、テンプレ的な「青春ラブコメ」展開になるかと思いきや「まちがっている」からこそ問屋は卸さない。

しかし、この時点で「青春」に規定され、構成されているとも言えるでしょう。「青春」への期待が自己言及的に空振りし、それ自体も「まちがって」いて「嘘」であるとしても、さきの二項対立を支える構成自体が「青春」というシステムの文脈に依存していることには違いありません。

自己変革を要請する奉仕部に強制的に投げ込まれた主人公ですが、変わることを促されることに対する比企谷八幡の拒絶は、潔癖的にいえば変わることは「逃避」であり「自己否定」であるとします。イマ・ココから過去を切断するかのような自己陶酔めいた自己肯定は「正しくない」とする理由は、まさしく「青春」へのカウンター的に、比企谷八幡にとっては一人ぼっちであるからこそ「個人主義」的に確立した自分のアイデンティティの固有性を疑うことにつながります。短絡的に、あるいは懐古的に過去を切断してイマ・ココを蔑ろにして美化するような「変化」は撥ねつけた「青春フィルター」の欺瞞と重なります。能動的ではなく、他人が要因となる「変化」への抵抗は、主体性の流されやすさとして表れるとして。その受動性は「空気」や「ノリ」、「キャラ」といった同調性、同調圧力的な振る舞いを想起させ、忌避する「青春」という「嘘」に半ば加担するような態度だと理解していると言えます。むしろ現状から粘るようにして踏ん張ることによって、安易な「成長」への意義を唱えることで「変わらなさ」という固有性を確かめていくことが「個人性」の強調となっています。

 

なぜ人はノスタルジーに惹かれるのだろうか。「昔は良かった」とか「古き良き時代」とか「昭和のかほり」とか、とかく過ぎた日ほど肯定的に捉える。

過去を、昔を懐かしみ愛おしく想う。あるいは変わってしまったこと、変えられてしまったことを嘆き悔やむ。

なら、本来的に変化というのは、悲しむべきことなんじゃないだろうか。

成長も進化も変遷も、本当に喜ばしくて正しくて素晴らしいものなのだろうか。

自分が変わらずにいても、世界は、周囲は変わっていく。それに取り残されたくないから必死であとをついていっているだけなんじゃないだろうか。

変わらなければ悲しみは生まれない。たとえ何も生まれなかったとしてもマイナス要素がでないというのは大きなメリットだと思うのだ。収支表を照らし合わせて赤字になってないならそれは経営方針としてはけして間違いではない。

だから俺は変わらないでいることを否定しない。過去の俺も、今の俺も否定する気はさらさらない。

変わるなんてのは結局、現状から逃げるためなんだ。逃げることを逃げないなら変わらないでそこで踏ん張るべきだ。(5巻P134)

 

「変化」自体に疑義を差し込み、「変わらなさ」を固有的な安住とする自己肯定は自己完結的です。 今までが一人ぼっちであり、その「個人主義」が当たり前だったゆえに「孤独」を軽んじる風潮にカウンター的に作用する立ち位置を取っていると言えます。

もちろん、孤高であることを突き詰めた結果とも言えますが、寧ろ突き詰めるしかなかったことが「潔癖的倫理観」を形成していったと推察できますし、その結晶としての比企谷八幡の「個人」的であることのポジティブな心理とネガティブな思考の「語り」が魅力的に記述されています。

そして、その心象的なリアリズムにおける価値転倒が後期の「本物」問題につながっていくのは言うまでもありません。

比企谷八幡雪ノ下雪乃は、「孤独」という共通性がある同じようなベクトルなのに噛み合うことはありません。「持つ者」としての雪ノ下雪乃と「持たぬ者」としての比企谷八幡の図式は、嘘を吐かない潔癖性によって立ち上がり、孤独な者同士がプラス・マイナスのベクトルの出発点の差異・ズレはあったとしても、「孤独と正しさ」という同一性によるフィードバックを経て、個人的な差異を見つけた2人が「交通」=コミュニケーションにある非対称的な「賭け」、つまり「命がけの飛躍」を通じた「選べるようになる」までの不一致的な迂遠さが作品自体の軌道として描くことができるでしょう。

のちにバトル・ロワイアル形式を導入する契機となったのが由比ヶ浜結衣の存在となります。彼女は奉仕部内における「蝶番」として機能していたと言えます。その機能性が潤滑油となっていたと整理することはできるでしょうが、この時点ではスクールカーストの上位に属し、「空気」を読むことで周囲に流されやすい受動的なキャラとして成立しています。「本音」を隠しては「建前」で合わせていく。「空気」に同調して、迎合する様子は「建前」や「キャラ」もある種の「嘘」に映ります。その意味ではコミュニケーション能力の高さとは、その「建前」や「キャラ」を維持する同調性と恒常性の努力にあって、「空気」との緊張関係に他なりません。

他人や「空気」に流されやすい由比ヶ浜結衣には「自分がない」という意味では、「個人主義」的な固有性が揺らいでいて、比企谷八幡雪ノ下雪乃とは異なる存在として登場しました。

 

きっと彼女はコミュニケーション能力が高いのだろう。クラスでも派手なグループに属すほどなのだから単純な容姿の他に協調性も必要とされる。ただ、それは裏を返せば人に迎合することがうまい、つまり、孤独というリスクを背負ってまで自己を貫く勇気に欠けるということでもある。(P106)

 

当たり前のように「空気」を読み、その可視化された中に紛れている「本音と建前」をケース・バイ・ケースに使い分け、的確に、そして当意即妙的に「空気」に対して協調して立ち位置を合わせていくことがコミュニケーションとしての処世術となります。その結果が、スクールカーストにおける「空気」を読んで、合わせていくことで帰属意識と安心を獲得でき、また立ち位置によってはグループ内の潤滑油と緩衝材として機能していきます。

『俺ガイル』では、スクールカースト上位のリア充と下位のオタクたちは意識的に描かれています。前者は葉山隼人たちを捉え、後者は有象無象の一部として時折登場する程度といってもいいでしょう(遊戯部が代表的です)。

上位・下位問わずそれぞれのコミュニティがあり、不干渉によって徹底的に交わらないことが比企谷八幡の視点から見えてきます。どちらにも属していない一人ぼっちであるために「語り手」としての中立性が担保されていると言えるでしょうか。どちらでもない、一人ぼっちであるからこそ距離が等しく生じている。それぞれの島宇宙的なコミュニケーションがあり、孤独な比企谷八幡の視点を通して上位カーストと下位カーストのコミュニティが可視化していきます。そこに直接的な衝突は存在せず、それぞれのコミュニティの中で自己完結して充足している姿が描かれている。そのために中間層(キョロ充)は可視化されることが殆どありません。5巻から6巻にかけて登場する相模南くらいでしょうか。

上位グループ(リア充)と下位グループ(オタク)を描くことで、意図的に中間層(キョロ充)を空洞化している物語構造は、『俺ガイル』という作品が厳密にはスクールカーストの可視化が目的ではないと読めるでしょう。冒頭の作文にあるような「リア充と非リア」や「正義と悪」や「本音と建て前」などといった二項対立的な提示が『俺ガイル』の特徴として挙げられますし、その二項対立を支えている思考・記述の「脱構築」による無化が目的にあるように考えられます。ですから、スクールカーストで言えば二項対立からある意味抜け落ち易い中間層は空洞化=匿名化されることとなります。匿名的な中間層を描かず、正確には描けないからこそ中間層とも呼べるわけですが、「リア充と非リア」の構図の輪郭を強調させる目的があったと言えます。

今となっては「リア充と非リア」という言葉ではなく、「陽キャ」と「陰キャ」に置き換わっています。言わんとすることは「ネアカ」と「ネクラ」とさして差はありません。この大局的な二極化では、「陽キャ」と「陰キャ」のボーダーラインの判定が「白か黒か」に過ぎず、濃淡や中間的な灰色が不可視となります。キョロ充は揶揄的な意味を持っていましたが、これは今では「陰キャ」の文脈にそのまま回収されてしまうでしょう。中間層の可視化を許容しない「白か黒」で塗り潰す判定性は、むしろ中間層、キョロ充を意図的に描かなかった『俺ガイル』が示した予見性のように読めなくもないでしょうが、それよりも単純化した二項対立を提出するための方便・手段だったのが適切ではないでしょうか。単純化した図式を提示し、それを崩す。そうなると、中間層を含めた厳密なスクールカーストを語る必要性が無かったとも言えます。

もちろん、『俺ガイル』が完全にスクールカーストを排除するようにして描いていないわけではありません。そのこと自体に目的を置いていないというだけです。

この作品の持つ「スクールカースト性」は、上位には上位の「空気」や「苦労」があることに尽きるでしょう。上位が作り出す「空気=ノリ」に従属するしかない下位に対する「上からの無自覚な振る舞い」ではなく、上位も「空気」に組み込まれている当然の光景が広がっています。その「空気」から外れている比企谷八幡を語り手に据えることで、客観的に上位グループを炙り出すことに成功しています。

リア充も大変」であることは由比ヶ浜結衣を通して描かれています。まさしく「健全的」な「昼」のように。上位カーストであってもグループ内にグラデーションのように序列は存在しています。友達という存在感が「空気」を醸成しては、無自覚な同調圧力に転換されるシーンも三浦優美子の無邪気な振る舞いを通して描かれています。

「空気」に対して隷属するのは、「みんな」と同じではないと「不安」になるためです。「浮いて」しまうから。そのために「キャラ」を構築し、その手段が「建前」であり、「空気」を読むことは立ち位置を容易に確保するためです。これらの「嘘」で成立しているコミュニケーションは「青春」模様と重なり、比企谷八幡からすれば自己陶酔と自己欺瞞の表象に過ぎません。ですから、反発するようにしてカウンター的に、孤独な「夜」的価値観を通した「正しさ」の確認が、倫理的に「嘘」を許容できない潔癖性として露わになっていると言えるでしょう。

のちに比企谷八幡が属する奉仕部と、葉山隼人らの共同体が抱える問題の「空気」は一見不一致的に映りますが、二項対立の無化から相互に対称的に輪郭を与えていくのが、いわゆる「夜」と「昼」の「健全な文学化」への橋渡しとなっていきます。

正確にはスクールカーストを描くことが目的ではなく、比喩的にいえば、比企谷八幡側の「下から上への目線」と葉山隼人側からの「上から下への目線」といった、結果的に二極的に描くことで、相互の不一致的な関係性や(非)対称性から二項対立を突き動かすことに重点を置かれていました。

1巻で三者三様の出会い方をした奉仕部の彼らは、前期で重要な「交通事故の被害者と犬の飼い主とリムジンに乗用していた加害者」の関係性だったことはこの時点では知りません。

2巻では由比ヶ浜結衣との付き合いにおける構われる理由を探し出して、過剰に「まちがいながら」も「正しく」歪んでしまう比企谷八幡が描かれます。勘違いをして、負け続けてきた経験とプライドの高さから、一時的に由比ヶ浜結衣の優しさを取り違える「まちがい」をしてしまう。「正しい」と認知バイアスに陥りながら、「まちがわない」ようにした結果として「交通」の非対称的な不確定な足場を強調してみせます。このような言葉と態度が厳密に一致できない、非対称的なバランスの上で成立せざるを得ないコミュニケーションの「相対的な不安定さ」から「言葉の貧しさ」=文学化に直面していくことになりますが、その息吹は具体的なコミュニケーションの失敗による「すれ違い」からでしょう。互いにコミュニケーションとディスコミュニケーションの円環にある彼らが、部活動をしていく内に内輪が形成されていきます。その結果として、自立できなくってしまう彼らへの皮肉が後期の問題として浮上していきますが、それは後述していくことになるでしょう。

交通事故の件は『俺ガイル』で重要な意味を反復的に持つことになっていきますが、この時点で既に象徴的なように、比企谷八幡由比ヶ浜結衣とのやり取りが絶妙に噛み合わないような情報レベルの非対称性があります。由比ヶ浜結衣が犬の飼い主であることは当事者の語り手には把握できていなくても、読者だけは二人の「不一致的なコミュニケーション」を眺めることができ、またそれを記述しているが正確に分かっていない語り手と読者との非対称性も見えてきます。

しかし、情報レベルの非対称性だけではありません。

比企谷八幡の卑屈さ、あるいは個人性にある「一人ぼっち」としての個人的な思考の語り(記述)にネタ化も含めた「共感・同期性」が読者との間に生まれます。読者に感情移入を誘発させるようにして。この共感性は、その意味では「友と敵」に分けるような機能を持ちます。明快な敵の存在によって集団が一致団結するという意味では6巻が顕著となりますが、敵を設定した上での党派性に依存した語りは「青春」や「リア充」を糾弾する冒頭のテキストから露わとなっていると言えるでしょう。まさしくテキストをなぞるようにして、非リアの観点から「友と敵」のように二項対立的な党派性を抱かせることで、自然とカウンター的に作用できる立ち位置を確保できることから、「夜」としての共感性を発生させているとも言えます。

 

ただ俺は証明したいだけなのだ。ぼっちは可哀想な奴なんかじゃないと、ぼっちだから人に劣っているわけではないと。

そんなのは俺の独りよがりだとわかっている。(略)

けれど、俺は今の自分を過去の自分を否定しない。一人で過ごした時間を罪だと、一人でいることを悪だと、決して言わない。(P258)

 

一人ぼっちであることから、単なるルサンチマン的図式に持ち込むのではなく、一人でいるからこその自己肯定とする態度には「変化」への拒絶の根源があります。

一人の時間を「罪」だとしてネガティブに扱うのではなく、一人で過ごしてきたからこそ自己と向き合ってきた内省的な矜持やコミットメント(能動性)があり、そのこと自体が軽んじられる風潮や「青春」から恰も零れ落ちるかのような「語り」に対して抵抗していると言えます。

テニス勝負の件でも、比企谷八幡が放った魔球はまさしく孤独であることが強みとなった証明でもあり、一人で過ごしたゆえの可能性を開かせていました。一人でいたからこそ知っている。だからこそ風向きの変化を実感していた。些細な変化でありながら、自然をそのまま甘受する時間の豊穣さは孤独であるからこそ敏感になり得る価値を示したと言えるでしょう。一人でいることは恥ずかしいことでも可哀想なことでもないとするような証明は、一般的な価値転倒を促し、比企谷八幡を通して「一人」でいることをただ肯定する。すると、反動的に「青春」や「リア充」へのカウンターとなるような、懐疑的な価値転倒を起こした当事者である比企谷八幡を媒介とする「共感性」は個々人をつなげる「個人性」の連帯的輪郭を強調させ、読者を没入させていきます。

テニス勝負にも表れていますが、「対青春」「対リア充」という党派性・共感性に支えられた二項対立的表象は、まさに「孤独」であることから「青春」の意味内容を脱臼させることが目的ともいえるでしょう。「夜」からのカウンターとして。それも一面的なものでしかないとするのが『俺ガイル』の作品性ですが。

「青春」を謳歌する者が主役であるならば、主役ではない者の「青春」とはどのようなものか。

というのが『俺ガイル』である、と端的に言えるかもしれませんが、スポットライトを浴びない「夜」(非リア/文学的内面性)に焦点を絞ることは、結果的には作品としてスポットライトを浴びる=主人公・語り手という逆説的表象があり、「夜」の前景化こそが「共感性」と結託することで「内面を語りうる」という素朴な逆転現象、あるいは矛盾があると言えます。その逆説的状態は、後期の内面=文学性と「仮構」した部分性に深く結びついていますが、ここでは比企谷八幡が自覚している部分と自覚しきれない部分に触れざるを得ません。

 

結局のところ、この奉仕部というコミュニティは弱者を搔き集めて、その箱庭の中でゆっくりと微睡んでいるだけのものなんじゃないだろうか。ダメな奴らを集めて仮初めの心地いい空間を与えているだけなんじゃないだろうか。

それは俺が嫌悪した「青春」と何が違うのか。(P228)

 

 

誰かの顔色を窺って、ご機嫌をとって、連絡を欠かさず、話を合わせて、それでようやく繋ぎとめられる友情など、そんなものは友情じゃない。その煩わしい過程を青春と呼ぶのなら俺はそんなものはいらない。

ゆるいコミュニティで楽しそうに振る舞うなど自己満足となんら変わらない。そんなものは欺瞞だ。唾棄すべき悪だ。(P233)

 

現状の自分自身が置かれている「仮構」された箱庭への疑問が投げかけられています。ここで半ば自己嫌悪が露わになっている潔癖的倫理は、「青春」という免罪符を抱えている欺瞞とさして箱庭的には変わらないことに対する危機感や不安を過剰に察知していますが、それらが「嘘」で「正しくない」とするのは物語的には「正しい」と言えるでしょう。

自己満足であり、欺瞞である「仮構」された箱庭に警鐘を鳴らしていたはずの自分自身が既に取り込まれていること自体の欺瞞にも語り手である比企谷八幡は認識しています。その意味ではメタ認知的でありますが、比企谷八幡が認識する以前から読者との非対称性はやはり存在していて、既に箱庭における「青春ラブコメ」的ではありました。語り手の比企谷八幡にとっては「青春ラブコメ」の文脈から梯子を外されている(「まちがっている」)ために正確に認識し切れていませんが、例えば雪ノ下雪乃由比ヶ浜結衣の仲を「友達」として承認するシーンは、女の子同士のラブコメ展開に対して比企谷八幡は「外」から眺めていることしかできません。語り手の男性をそっちのけで、ラブコメの輪に入れないといった「青春ラブコメはまちがっている」というタイトルの意味通りの展開が繰り広げられますが、メタ的にみれば語り手自体が「ラブコメを外す」文脈に構成されているからこそ、それすらも既に「まちがってい」ながらも「青春ラブコメ」的であったと言える。

このような読者と比企谷八幡との「共感性」から距離を置いた、語り手としての認識の不一致性には、「青春」というスケールの理解が絡んでいきます。「青春」を撥ねつけても、それすらも既に「青春」的に映ってしまうジレンマとして、あるいは「まちがっている」とするにしても忌避している「青春」の中に構成されていないといけません。「対青春」「対リア充」から出発しているカウンター的二項対立は「友と敵」のような党派性の精神性を持ちながらも、そのことを語ること自体が「青春」という文脈に依存している/しなければならない衝突があります。そのジレンマは「青春」というスケール/フレームのなかで構成されるものでしかなく、「青春のエコシステム」といった一元論に回収/還元されてしまうと言えるでしょう。だからこそ「共感性」を生み出すことができます。

1巻の第8章からは「青春フィルター」への嫌悪が語られています。「青春フィルター」を通した美化は欺瞞であり、自己陶酔的であるとする一方で、一人の時間は楽しいという実感が単なるルサンチマン的な構図に引き摺られないまま二項対立的に成立していますが、ナルシズムの問題が浮上してきます。

「青春フィルター」との党派的精神性を抱えているだけで、孤独の証明ということすらもある種の美化であり、リアリズムだとしても、どちらにも無自覚的な自己満足かつ自己陶酔があるのは変わらないのではないでしょうか。この矛盾、ジレンマは自意識過剰の産物でありながらも、自己を正当化する理論が対立軸に引っ張られる形で成立しているために無自覚的なナルシズムという共通性を覆い隠すようなものです。端的にいって欺瞞でしょう。「嘘」は「正しくない」とする潔癖的倫理観の発露は「正しくあろう」とする自分という価値基準の前面化、その語りでしたが、正当化するための党派的なロジックに潜む自己欺瞞にはバイアス的に「正しく」応答できない矛盾があると言えます。

本来的には、語りという手段が目的性に固定されて価値転倒してしまったとも整理することはできるでしょう。結果として、潔癖的に「正しくあろう」とする自意識の肥大化がそのまま視界を狭くしたことになります。

もちろん、比企谷八幡自身がナルシズムへの疑いは持っていることは見逃せません。ルサンチマンとして、「夜」の青春としての肯定を正当化する背景には、そういった「青春」もあってもいいのではないか、とする「青春」における語り残しといったある種の暴力性の告発であり、薔薇色ではなくとも灰色としての「青春」もあっていいとする語りです。モノクロームに苦悩していることさえも「青春フィルター」を通して美化されるかもしれなくとも、「青春」というスケールには自己陶酔(ナルシズム)と懐疑的な目線を投げかけるべく欺瞞への不安が付き纏う。その疑いから、自己意識的に離れることができないのが比企谷八幡の倫理的潔癖性という語りです。

1巻最後にはタイトル回収――やはり俺の青春ラブコメはまちがっている――が記されています。ある意味では、語り手自身がメタ視点を獲得したかのような錯覚を抱かせるでしょう。

比企谷八幡自身が置かれている境遇、環境(箱庭)への懐疑的視線を投げかけながらも、「青春」から逸脱していること自体が持つであろう「まちがっている」感覚は、タイトル的な意味では「まちがっている」ことこそが「正しい」と言わざるを得ません。

重要であるのは「青春ラブコメ」が「まちがっている」ことです。「青春」が「まちがっている」わけではありません。

まさしく「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている」にあるように「やはり」に込められているのはアイロニカルな「持たぬ者」としての自覚的な感慨になるでしょうが、「まちがっている」は「青春ラブコメ」の脱臼に相当します。

もちろん、その逸脱さえも「青春ラブコメ」的となり得る。「青春ラブコメ」の典型から外れるような「まちがっている」部分さえも全体として動的に引き込まれていくように。さきの「青春のエコシステム」の動的な一元論的再帰性をイメージしてもらえれば分かり易いでしょうが、比企谷八幡がタイトル回収をしてメタ視点を獲得したかのようにタイトル的に自覚したように見えても(もちろん錯覚ですが)、その振る舞いが「青春ラブコメ」を脱臼したとて無自覚的にも「青春」的に映ってしまいます。

比企谷八幡の「青春」理解は一面的なものに過ぎません。対象は「リア充」とひどく限定的なものです。自分自身はもちろん、想定している範囲が狭い。この狭さはリア充のハードルの高さを意味しているかもしれませんが、重要なのは「青春」はリア充の特権であるかのような一面的理解は「昼」の産物であり、「夜」的に内面を引き受けている語り手が逆照射して「昼」を引き立てているような錯覚を抱かせることです。

二項対立的な語りから、彼岸が相対化していくことで「夜」としてのある種の卑小性が肥大化していくのはルサンチマン的でもありますが、「青春」が「まちがっている」わけではないとしたのは、このような一面的理解を破壊するためであり、「夜」も「青春」に内包される事実を見過ごしているからでしょう。

「夜」であるからこそ逆説的に語り手として焦点が絞られている矛盾はさきに記した通りですが、比企谷八幡が置かれている「青春ラブコメ」が脱臼して「まちがっている」ように自覚しても、その理解はやはり一面的であり、「夜」も「青春」となる。そのこと自体が持つ「共感性」には自覚していません。一人ぼっちゆえの一面的な理解と言わざるを得ないでしょう。そういう意味では「青春」というのを最も絶対化、美化しているのは比企谷八幡という語り手かもしれない、と言えるでしょうし、「まちがっている」ことも含めた半ば自覚的な認識が物語化に内包されたまま「青春」という語り(ナラティブ)に見事に回収されているからこそ、比企谷八幡を通した非対称性にある距離感を生み出す「青春」へのアイロニーを受け取れる構造となっているのは見過ごせません。

 

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